虹ノ松原 (唐津)

(2009年十一月唐津鏡山より撮影

遥か下虹ノ松原冬霞 (唐津鏡山)
下界なる虹ノ松原冬霞(唐津鏡山)

唐津湾沿いに、虹の弧のように連なる松原。唐津藩初代藩主、寺沢志摩守広高が、防風・防潮林として植林したのが始まりで、全長5km、幅1kmにわたって続く松は、約100万本と言われています。今では、三保の松原、気比の松原とともに日本三大松原の一つに数えられ、国の特別 名勝に指定されています。NHK「21世紀に残したい日本の風景(BS2)」の投票で、第5位 に選ばれました!(唐津観光協会)

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世界の俳句

有季‧無季 定型.自由律 花鳥諷詠‧人情世故  時事‧社会 客観写生‧主観感動

 みんな みんなの母語でよむ俳句

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齢七十五にてつと去りし日を振り返りみて我自身を知る…
波の間に間に 流されるまま 人を羨むことなく 求めることなく
世間と争わず なれど 荒波に遭うを 免れ能わず
思いもよらない 公務員年金を亨く 多からずとも又 少なからず

命を保つに 憂うこと無し
キーボードを たたいて インターネットに遊ぶ

得るところ有れば 又与える事もあり
名利共に 余生の外にあり
(オーボー真悟)
#お知らせ!!
e-book (オーボー真悟の短詩集)を刊行しました、ご興味のある方は下記のアドレスhttp://www.olddoc.net/oobooshingo-poem.pdf をプレスして下さい、無料でダウンロード出来ます。                    
 (オーボー真悟)
The Global HAIKU Net: https://olddoc.net/global-haiku/index-H.html

2012年7月31日火曜日

一外国人の俳句手習い手記(4)

               外国人が考える「HAIKU」と「俳句」の未来


                              吳昭新(瞈望、Chiau-Shin NGO)

「HAIKU」と「俳句」―これは外国人が初めて俳句を習う時に必ず出会う問題であります。と同時に、日本の俳人も、俳句のことを深く考えるなら、同じ問題がたまさか脳裏を翳めるではないでしょうか。

俳句が外国に渡ってから早くも100年を超え、外国語で俳句を詠む時に起こる問題が話題になることがあります。学問的にどうこうではなく、有耶無耶にではありますが、人それぞれに結構好き放題に話題にしています。特にネットと言う便利で放埓な媒体が出てきてこの方、約十六七年、「HAIKU」と「俳句」には、だれに阻まれ、規制、検閲され、また、文句を言われることも無く、年齢、性別、身分、学問、職業、党派の区別を問わず、自由にネットの上でおのおのの意見を述べることができるようになり、一人の人間では考えつかない様々な思案を見聞でき、さまざまな方向に開け行く俳句の未来像が、見えるようになってきています。

「HAIKU」は日本語以外の言葉(外国語)で詠まれる俳句で、漢字だけで詠まれる「漢語俳句」をも含みます。そして「俳句」は、ここでは、日本で世間一般の通念である定型有季の日本語の短詩を指すものとします。でも、困ったことにこの「俳句」という語彙に、問題が出て来たのです。もともと「俳句」は、明治中期に正岡子規(1867-1902 )が名付けたもので、それまで世間一般で単独に詠まれていた連句の発句につけた名前でした、そして、遡ってそれ以前に詠まれた芭蕉の単独発句までをも含む言葉となってしまいました。その「俳句」が今では、有季定型の決めごとに加え、子規の言う写生、また、高浜虚子(1874~1959)の言う客観写生、さらには花鳥諷詠の制約に限定しようとする日本伝統俳句協会と、それに同調する人たちの言う「伝統俳句」と、それらの条件にそぐわないその他の「俳句」に大きく二分されました。そしてその他の俳句は「自由律俳句」、「無季俳句」のほかに、またその内容、特徴、性質、社会背景、…によってそれぞれの名称で呼ばれています:「新傾向俳句」、「社會性俳句」、「前衛俳句」、「新興俳句」、「プロレタリア俳句」、「戦争俳句」、「人間探求派俳句」、「根源俳句」、「大衆化俳句」、「造型論俳句」、「芸術派俳句」、「国際俳句」及び「世界俳句」など。これらの「HAIKU」またはその他の「俳句」についてもまた新しい造語が生まれました:「俳句に似たもの」、「俳句想望俳句」、…など。また俳人協会が小・中学校教科書発行者に送った(「俳句文学館」1999年9月5日第3面)に、俳句の取り上げ方に対する要請(俳句の季語および五七五定形の厳守)もありました。

で外国人が日本で俳句を習うとき一番始めに教わるのは定型と季語です、所謂の五七五と季節に関する言葉です。これは外国人だけでなく日本人が小学や中学校で教わる時も同じです。

問題はそこから来ています。定型と有季と言いますが、教科書や俳句書籍に出てくる芭蕉以降の所謂名句、秀句に破調(定型でない)、自由律や無季語の句が多くあることです。そして結社で師匠が弟子たちの俳句作品を添削する場合「字余り」、「字足らず」、「季語が無い」、「季重なり」と言うような批評は常例で、名人の作品なれば「定型」でなく、「季語」が無くても「自由律」でもかまわない、何とかしていい様に解釈鑑賞をする、しかし、無名の作品なれば見向きもされないばかりか、こっぴどく貶されることもありえます。例えば子規のあの有名な「鶏頭の十四五本は~」の句、子規の句ではあるがこそ初めは相手にされなかった句が、後になって特別に解釈されて名句になりました(そう思わない人もありますが)。ネット上で読んだのですが、「うちの子は中学、高校の俳句コンクールではいつも賞を貰っているが、卒業後結社に入って師匠からひどい批評ばかり受けて、面白くなくなって、とうとう俳句をやめました」と言う親がいました、これが俳句界の実情なのです。外国人の俳句初心者が戸惑いするのは当然ではないでしょうか?

教える標本と実作の評価の基準が同じでない、教えるのは「伝統俳句」であり、それでなければ俳句でないが、名人の名を獲得すれば、後には「伝統俳句でない俳句」も名句秀句として、何とか理由をつけて鑑賞されるのです。古い話ですが、桑原武夫の「俳句第二芸術論」もまたその事実を裏づけています。ある一つの事象について、詠む人の感動の表現と読む人の感動の受容は往往にして違うものであり、詠む人と読む人の人生経験は全く違うものです。それゆえ軽々しく他人の感動を批評することは控えるべきです。一二年前台湾で「マンモス判事」という学生社会運動が起きました。日本の「マンモスペアレント」と少し意味は違いますが、人生経験の違いが間違った判決を下す結果になり、それに反発して起きた社会運動でした。

俳句(短歌や川柳でなく)がどうして全世界に広まって、各種の言語使用者から受け入れられ、はてはいかなる言語でも吟詠できる短詩になったのか、その原因は長い間探索されてきましたが、結論は、まだのようです。

初心者の着眼点から、私なりに切り込んで見ましょう。俳句とは:その形式と内容により、これ以上短縮できないまでに凝縮された最も「短小」で、その短いがために全てを言い終えず、余白を残し(水墨画のごとく)ており、読者は、自身の経験に照らして自分なりの感動を楽しめる詩です。鈴木大拙のいう「禅」もまた一種の余白であると思います。

さて、これ以上短くできないまでの1.短縮、そしてそれによって2.完結していない全体性、3.残された余白による読者側の鑑賞法、これ等三つの条件は確かに、他の詩型には無い特徴です、そして、これ等の条件に合う詩は、詩情に富む詩人にも、一般民衆にも、最も作りやすい詩であるべきです。同時に、すべての言葉で最も作りやすい詩であるでしょう。その上、その鑑賞は、読む人の自由にまかされており、同感を得やすいのです。これだけの条件がそろっているので、俳句が、世界中で受け入れられるのは、少しもおかしいことではありません。

さて、日本での俳句を見ると、最短の詩型である、として問題はありません。日本語は平板で、一音一音の長さが等しい言語であり、すなわち等時性言語です。日本語には中国語にある「韻律」や「声調」がなく、また英語などにあるアクセントのリズムもありません。定型五七五は日本語に最もふさわしい拍数であるでしょう、しかし、必ずしもそうでなくてはならないとする理由はありません。詩の音楽性という以上、リズム、押韻、耳に楽しい、口ずさみ易い等、いろいろと選択があります。日本語のリズムの数え方は拍(短音節;モーラ;mora)で表わし、日本語の仮名音一つで一拍、そして五と七拍を以って最も語呂がよく、耳を楽しませる拍となります。これは唐詩の五言、七言の音節のリズムと同じ意味があります。また、日本と中国の詩歌には、それぞれの句、または詩そのものに独特の韻律-「内在律」がありますので、外在律に拘る必要がありません。ただ、内在律は顕明でなく、一句ごとに、また、読む人によって違いがありますので、理解しやすく把握しやすい「五七五」定型を一般的に遵守することは、理解ができます。しかし、絶対遵守とするのはいかがなものでしょうか。私は、「俳句」であろうが、中国の「詩詞」あろうが、読んで詰屈聱牙でない限り、そこに音楽性の根源があると思います。そして、押韻、対応があれば尚更よいでしょう。しかし「過度に複雑」なる規制は、かえって一般大衆を門前払いする可能性があると思います。また、五七五定型は上述の如く、日本語の音楽性リズムの問題です。世界の各言語には必ずその言語ごとに耳を楽しませるリズムや音楽性があるのであり、各言語の音楽性に合えばそれで良いのです。

季語は日本人の習慣から来た挨拶の言葉であり、あって普通であるとしても、無くてもおかしくありません、それゆえ、無季などの名句秀句もあるのです。

「HAIKU」について上掲の三つの条件を考えてみると、1. できるだけ短くする、2.完結していない全体性、3.余白を残すことは、どの言語でも問題ではありません。そこで、日本俳句の575定型は、上述の如く日本語のものといえ、世界が必ずしも日本語の真似をすることはありません。挨拶の季語にいたっては、挨拶を季節から始めるのは日本人の文化習慣ですが、同じ挨拶語でも英語では「How do you do?」、「How are you?」ですし、中国では新時代の造語である「你好?」(ご機嫌いかが?)、そして台湾では「食飽未?」(食事は済みましたか?)が、日常出会った時の挨拶の言葉です。それゆえ、日本の俳句で季語を愛用することは理解できますが、生活習慣が違う外国人は、理解或いは会得に困難を感じます。それゆえ「HAIKU」は、上掲1.2. 3.の条件は受け付けますが、五七五と季語は、あればあるでよいとしても、なければないで一向に構わないのです。 また、かえって、規則の遵守が問題になる場合もあります。例えば漢語俳句において無理に五七五を真似た場合、「漢俳」のような内容量が短歌に相当する短小という俳句の第一条件に違反する短詩が生まれます。三四三とか、二三四とか、三三四とかにすれば漢語のリズムに合った美しい漢語俳句が詠めますし、日本の名句も翻訳できるのです。現に中国の名ある詩人によって幾多もの名訳があります。無理に五七五に訳した場合、錦上添花や画蛇添足の「漢俳」になってしまうのです。しかし「漢俳」は「古詩」に比べて、短く、ルールが簡単なので、ここ二十年来漢語詩界から喜ばれる新しい漢語詩の一短詩型詩として受け入れられ広まった訳です、ですが「漢俳」は本質上けっして俳句ではありません。

詩は感動に始まります、そして「感動」とは人間が日常生活で出会う全ての事象に対する感情反応です。動物、たとえば犬はその感情をいろんな行動で表現することはできますが、人間のように記号で表現することはできません。感動が、人類が日常生活で出会う、全ての事象(自然環境、人情義理)に対する反応であるならば、詩は、人間の感覚(視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚)、人情、人事、倫理、論理及び哲学など全般を含むべきです。また、主観、客観のどちらをも含むべきで、視覚のみの感動に制限する必要はないと思えます。

早期の伝統俳句は文語でのみ詠まれました。しかし、日本語の仮名づかいは戦後文部省により新仮名づかいとして標準化され、戦前の仮名づかいは旧仮名として使われなくなりました。その後、文章における口語の使用も普及し、現代日本語は、外来語のカタカナつづり、はては日本造語のカタカナ語などと、大いに変遷しています。これもまた言葉、そして、言葉の芸術である伝統俳句であっても、時代の潮流の変遷には逆らえないのが現実です。地球上の全ての事物は絶えず変りつつあり,文化思想もそうであります。これらの事象は、習慣や伝統を永遠に墨守することが不可能であることを傍証しているのではないでしょうか。それゆえ、外国語で俳句が詠まれるのも、また、自然の成り行きではないでしょうか?

なぜ多くの詩形のなかで俳句のみが全人類の人気を集め、全世界のあらゆる言語に行き渡ったのか、とどのつまりは、作品が短小であること、日常生活に関して簡単容易に詠めるということ、余白を残せることとに帰するのではないのでしょうか。

容易に詠める、ということで言うと、子供や小学生でも詠んでいる、ということがあります。ただ、内容に「浅い」と「深い」、「簡単」と「深奥」の差があるだけです。形式に繁雑な規制がなく、小学生でも最も簡単な語彙や語句を使って日常生活で見たこと、出会ったことを詠めばよく、大人ならば、それぞれの人生経験および個人の天性の感性によって、それぞれ深さの違う俳句を詠み、また、鑑賞できるのではないでしょうか。今ではアメリカの小学校の教科書でも英語俳句(HAIKU)が教えられています。俳句の創始国である日本で、この民族文化の光栄をまだ拒否し、あくまで日本の伝統俳句でなくては俳句でないと拘泥する方がいるのには、ほとほと首を傾げざるを得ません。

さて、俳句の約束ごとで言うと、子規は、一般的な約束ごとに符合しない句は「雑」としていますが、それでもみんな俳句だとしています。しかし、一部の後人は、その事実に素知らぬ顔をしているのです。

また、虚子の「客観写生」は、難解な主観感動を避ける一般大衆のための約束ごとであり、主観意識のある俳句を吟詠してはいけないという意味では決してありません。虚子本人にも主観事象を詠んだ句が少なくなく、多くの他の俳人たちも同様ですので、この説明は、虚子の客観写生の主張をめぐる弁明であるとされているようです。

いろいろある約束ごとはみな「人為」であり、変動可能な状況下におかれています。さらに一歩進んで、今日の俳句の発展を子規は予期しなかったのか、できなかったのかに考えめぐらせると、子規が企てた改革の本当の意図と展望を思わざるを得ません。私が思うに、もし子規があれほどに短命でなかったならば、子規の聡穎そして革新に満ちた個性に照らし、子規はこれらの俳句の約束ごとを堅守して絶対に改変しないと、誰が言えるでしょうか?

最近、今泉恂之介がその新書《子規は何を葬ったのか》(2011.9)で、子規の「蕪村、一茶の後、江戸時代後期から明治時代の中期まで一人としてできの良い俳人がいなかった、そしてこの期間の俳句作品は皆〈月並み、陳腐〉である」 という言い分は間違いである、と指摘しています。また、市川一夫も、1975年にその著作《近代俳句の曙》のなかでも上述の事実を既に挙げていましたが、かれが無季、自由律と口語俳句を主張したために、伝統派覇権時代の大環境のもとで顧みられなかったことを思えば、我々は、習慣の墨守が文化にまで及ぶという不幸を認めざるを得ません。2011年のノーベル文学賞を受賞したトーマス‧トランストローマが良くする短詩がHAIKUであると今にして知る時、我々はどのような感想を持てばよいのでしょうか?

「HAIKU」は上掲の俳句の本質に符合する限り俳句そのものであり、如何なる方式或いは言語を使ってもかまわないと思います。それゆえ最短で、それ以上凝縮することができないまでに短く、そして瞬間の感動に応じ、余白を残して読者に随意の鑑賞を許すものであれば、主観、客観、大自然を詠むのも、人事、社会を吟ずるのも、みな「俳句」であると思います。各言語には各言語の俳句形式があり、例えば日本の「五七五」、表音文字の「三行詩」、漢語の「漢語俳句」などです。そして、自由律もまたその中の一員です。

また、「切れ」は文章の段落を示し、日本語語法の表示法であります。各言語には各言語の文章の段落を表わす方法があります。それゆえ、それぞれの各言語の文章の段落を示す方法を使えば良く、問題にはならないはずです。

さて、《季題中心主義》、《客観写生》、《花鳥諷詠》などの束縛にいたっては、ある一個人による主張であり決めごとですので、これによって「俳句」そのものの発展が制限されるものではありません。いかなる事物にも創始、発展、改革があり、ある一人の主張によって、いかなる事物もその発展、改革が、制限され、阻止されることはありません。それは、小さな範囲に限定される内輪の規定であり、また一時的なものでもあります。同じように「俳句」に関するいかなる制限も、ある分派の内輪の一時的な規制です。それを以って「俳句」そのものの全体に及ぶものとすることができるのでしょうか。我々は「伝統俳句」の制約規制を尊重します、といってもそれは、あくまでも「伝統俳句」の内輪の事です。

もともと詩は感動を詠むものであり、感動のおおもとはその時代の社会背景によって違ってきます。いつまでも大自然の事象ばかり詠むのもどうかと思います。良い例が中国にあります。約90年前の中国に起きたあの有名な五四文化改革運動です。その頃、「風花雪月」ばかりを毎日詠んでいた古詩人たちは、「病気なくして呻吟している」やからと、学生らの攻撃の的になりました、それ以後中国では、口語の現代詩が盛況の時代へと変っていきました。しかし、現代詩の詩人の多くがあまりにも思惟が飛躍する詩を詠んだために、一般人には理解ができず、詩は、一般大衆から離れてゆきました。今は混乱を極めていますが、一般大衆に比較的受け入れられているのは、やはり口語の現代詩です。

視覚の感動は確かに、哲学の思考まで飛躍します。その他の感覚感動はどうかというと、吟じて余白を残す、そして読者には、自分の経験から得ることができる感動に陶酔してもらうのです。吟ずる者の感動と読者の感動は必ずしも同じではない、それで良いのではないでしょうか?それこそまさに一石二鳥です。

人にはそれぞれ異なる人生体験があり、ある人が経験したことと同じ経験を他人がするとは限りません。ある人が詠んだ俳句を他人が理解できるとは限りません。ことに特殊感覚を有する人、あるいは特別の経験を有する人の感動は、他人には理解できないものです。

私は、狭義の「俳句」と言う名詞は日本語俳句に残して尊重を表わし、且つ「伝統」と所謂伝統でない「無季」、「自由律」、「社会性」、「人間探求性」、… など異なる形式を皆ひっくるめて俳句として包括するのがよいと考えます。そして、「伝統俳句」という名詞はもっぱら虚子らの三制約を守る俳句に残し、「俳句」項目下の次項目であり、「無季」、「自由律」、「人間探求性」と同じレベルのクラスに属し、そして広義の「俳句」には「HAIKU」をも含むと考えては如何でしょうか?

俳句の起源は日本です。俳句の本質について日本人は積極的に探求し、惜しむらく若くして亡くなった子規の改革精神に倣い、古きを尊重するとともに、新しきを開拓し発展させる子規の未完成の改革を成し遂げる責任があるのではないでしょうか。

以上はある一人の俳句初心者の外国人の未熟な考えです。一笑に附せられるのもおかしくありません。

(この小文、7千余字、は拙文《「俳句」、「世界俳句」、「漢語俳句」》約8万字から要約しました、詳細と文献は原文までお越し下さい。)http://oobooshingo.blogspot.tw/2012/03/blog-post.html 

       (2012-08-22脱稿)






                 伊東(2011)

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