虹ノ松原 (唐津)

(2009年十一月唐津鏡山より撮影

遥か下虹ノ松原冬霞 (唐津鏡山)
下界なる虹ノ松原冬霞(唐津鏡山)

唐津湾沿いに、虹の弧のように連なる松原。唐津藩初代藩主、寺沢志摩守広高が、防風・防潮林として植林したのが始まりで、全長5km、幅1kmにわたって続く松は、約100万本と言われています。今では、三保の松原、気比の松原とともに日本三大松原の一つに数えられ、国の特別 名勝に指定されています。NHK「21世紀に残したい日本の風景(BS2)」の投票で、第5位 に選ばれました!(唐津観光協会)

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世界の俳句

有季‧無季 定型.自由律 花鳥諷詠‧人情世故  時事‧社会 客観写生‧主観感動

 みんな みんなの母語でよむ俳句

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齢七十五にてつと去りし日を振り返りみて我自身を知る…
波の間に間に 流されるまま 人を羨むことなく 求めることなく
世間と争わず なれど 荒波に遭うを 免れ能わず
思いもよらない 公務員年金を亨く 多からずとも又 少なからず

命を保つに 憂うこと無し
キーボードを たたいて インターネットに遊ぶ

得るところ有れば 又与える事もあり
名利共に 余生の外にあり
(オーボー真悟)
#お知らせ!!
e-book (オーボー真悟の短詩集)を刊行しました、ご興味のある方は下記のアドレスhttp://www.olddoc.net/oobooshingo-poem.pdf をプレスして下さい、無料でダウンロード出来ます。                    
 (オーボー真悟)

2010年5月24日月曜日

俳句ー0023

 土割れて神の声なり雷鳴は(10-05-24)



 土割れて滾(たぎ)る黒雲神頼み(10-05-24)


俳句ー0022

   前人を非に仕立て上げなる教授
   
   時変わり前人を非に学位とる
   
   国変わりさだめにまごつく律義者
   
   時変わり風向きつかむ日和見屋



2010年5月23日日曜日

自由詩ー0003

      《井の中の蛙》


   口をひらけば
   滔滔と
   人をおしえさとす
   どうこうすべきだと

   まるで
   彼一人のみが
   聖人で
   他人はみな凡人だと

   彼は知らないのだろうか
   彼も他人も
   みな同じだと
   倫理道徳を知る
   知識人だと

   彼は
   本当に知らないのだろうか
   皆が黙って反駁しないのは
   心の中で
   笑っているのだと

   彼のみが
   自惚れて
   唯我独尊
   井の中の蛙
   なのだ
     (2005-07-20)

   有人一出口 
   就是滔滔不絕
   要教誨別人
   應該如何如何
   好像只有他是聖人
   別人都是凡人

   他真不知
   他和別人
   都是一樣 受過高等教育
   深知倫理道德的
   高知識分子

   他真不知
   別人不反駁
   是笑在心裡

   只有他
   自鳴得意
   唯我獨尊
   是
   古井青蛙
     (二○○五、七、二十)

ブラハ(2001)

2010年5月20日木曜日

自由詩ー0002

       《自惚れ》


   自分が
      偉いと思うなよ
   多くを知り
      成就が多くとも
   社会は広く
      知識の多きは
   満天に煌く星の如しとやら
   貴方はただの
      滄海の一粟なのだ

   どの仕事にも匠あり
   たとえ同業でも
      他人が知って
      貴方が知らない事が
   山ほどある


   インターネットを
      サーフしてご覧
   貴方は
      知るでしょう
   自分が
      如何に微小であるのを

   それでも会得出来ないならば
   私は知らない
      如何に
         貴方を形容するか
  
           (二○○五、七、二十)

   不要自以為
      很偉大
   知道很多
      成就至高

   社會之廣
      知識之多
         猶如蒼天星星
   你不過是
      滄海一粟

   行行出狀元
      即是同行
   別人知道的
      你不知道的
         還很多

   上網際網路
      瀏覽一下
   你應該會知道
      你夠渺小

   如果還不體會
      我不知道
   該如何來
      形容你。

      (二○○五、七、二十)

俳句-0021

        
 父は逝く静かなる海学(がく)の船 (10-05-20)


2010年5月19日水曜日

自由詩ー0001

        《名と利》


     他人と言い争う
          或いは弁論する
     それが出来る
          或いはやろうとする
     そこで始めて
          他人或いは社会が
               貴方を認識する
          或いは
               貴方の存在を知る


     言うことが
          正しいか
          或いは
               間違っているかは
     問題じゃない
          道理に合っているかいないかも
     問題じゃない



     他人に  貴方の存在を知ることを
          求めるのは
     天安門をくぐりぬける
          二人の内の
               一人に過ぎない



     それが為に
          他人と弁論するのか?
     それは貴方次第だ
          あの二人のうちの一人に
               なりたいならば



     ほんとに少ないのだが
          あの二人のうちの
               一人でないのは



     社会は
          彼の存在を知らず
          或いは
               彼が社会から忘れられる。



                      (2005-07-22)




     要或會

        跟人爭或辯
           人家或社會
              才會認識你
              或知道你的存在


     不管你說得對不對
        或有沒有道理
           要求別人知道你的存在
        也只不過是
        穿過天安門下的
           兩種人之一


     就為這樣
        就要跟人家辯?
        就要看你
           要不要做
              那兩種人裡的一種


     很少有人是
        不屬於這兩種之一

        社會不知他的存在
           或他被社會忘記。

           (2005-07-22)
(揚子江を行き来する舟、空の星のごとく多くとも、詰まる所はただ二隻、名利[名と利]を追う、即ち人間の原始欲二つに帰するのみ。此れは台湾、中国に伝わる物語で、清の乾隆皇帝が江南を巡視した時、揚子江を行き来する多くの船を見て、金山寺の禅師に舟の数を問うた時の禅師の答えでした。ノーベル賞もこの枠を抜け出せない喩えを詠んだ句です。別に乾隆皇帝が天安門に上って門の下を通る数多の人はどれだけかと大臣に問うたとき、大臣の答えも又同じであった-名利の二字に尽きると云う昔話があります。)

エッセイー0001

私と日本
  私は昭和五年(1930)台湾で生まれました。昭和十三年の初冬父の転勤について京都に移り、そこで小学二年生に転入しました。二年・三年の担任の先生は西野歌子先生、四年生から六年生までは古舘三徳先生でお二人ともひ弱い私をよく庇って下さいました。京都市左京区の北白川国民学校を昭和十八年三月卒業と同時に京都府立一中に合格入学、入学後一ヶ月余りで父の転勤のため退学、台湾台北に帰りました。
  そのころ日本は敗戦の色が見え始め、内台航路は危険にさらされ、高千穂丸はすでにアメリカの潜水艦によって撃ち沈められていました。私の乗った大和丸は船団に組み込まれて駆逐艦護衛の下で三日間の内台航路を七日間かけて中国大陸沿岸を迂回してやっとキールン港に着きました。
  直ぐに中学に転入出来るものと思っていましたが、あにはからんや船便の秘密厳守のため退学手続きもとれず、重ねて当時通信不便のため連絡もとりにくく、とうとう転入学できず一年遅れて昭和十九年四月当時の台北二中に受験入学、一年もたたぬうちに米軍の爆撃が激しくなり二十年のはじめ台北近郊の景尾に一度疎開したが家うらに500キロ爆弾が落下したため又あわてて台湾中部の員林、私の生まれ故郷に疎開しました。
  八月故郷で終戦を迎え、十二月台北に戻りました。台北二中は成功中学と改名し、初中(中学校)と高中(高等学校)各三年に学制が変わり、私たちは中学二年に編入され、その上学年の始まりが八月と変わったため又一年遅れることになりました。私はそこで中学と高校を卒業し、1950年八月に台湾大学(元台北帝大)の医学部に入学、医学部は七年制のため1957年卒業。
  卒業後三年付属病院に勤務、その後いくつかの病院を転々と勤務先を変え、衛生署(厚生省)の国立予防医学研究所所長を最後に1993年リタイアしました。
  その間台湾で研究し1972年鹿児島大学の医学博士学位(論文博士)を取得しました。
  1943年日本を離れてから1972年に博士論文の口頭試問に再び来日するまで29年間日本にきた事はありませんでした。その後来日の機会があれば必ず最後の一日は私が少年時代をすごした京都を訪れることにしています。

京都市北白川国民学校卒業(昭和18年)筆者前列左から3人目、前列校長澤田熊太郎先生と古舘三徳先生

俳句ー0020

 詩とはなに知らぬに詩詠む人のあり(10-05-18)

2010年5月16日日曜日

俳句ー0019

母の言葉で詠もう世界の俳句(10-05-15)

母の言葉で詠もう世界のHAIKU(10-05-15)

母の言葉で詠もう皆の俳句(10-05-15)

母の言葉で詠もう皆のHAIKU(10-05-15)






チエコのブルノの会議場にて(2001.5)







チエコのブルノの酒蔵(2001.5)

2010年5月9日日曜日

俳句ー0018

蟹歩き階段下りる老い一人

今朝起きて昨日仕上げた初稿をメールしようとしたら見つからない。ハードディスクが壊れたのだ、どうにもならないと言われた、その上全ての資料まで失った、34000字の原稿だった。書き直すには一から始めなければならない、資料も探し直さなければならない、完全なフラストレーション、就寝前に出しとけばよかったと思ったがもう後の祭り。原稿や資料は必ずコピーを別のハードデイスクにとって置くこと、いつもそう思いながら怠けてしまう。