虹ノ松原 (唐津)

(2009年十一月唐津鏡山より撮影

遥か下虹ノ松原冬霞 (唐津鏡山)
下界なる虹ノ松原冬霞(唐津鏡山)

唐津湾沿いに、虹の弧のように連なる松原。唐津藩初代藩主、寺沢志摩守広高が、防風・防潮林として植林したのが始まりで、全長5km、幅1kmにわたって続く松は、約100万本と言われています。今では、三保の松原、気比の松原とともに日本三大松原の一つに数えられ、国の特別 名勝に指定されています。NHK「21世紀に残したい日本の風景(BS2)」の投票で、第5位 に選ばれました!(唐津観光協会)

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世界の俳句

有季‧無季 定型.自由律 花鳥諷詠‧人情世故  時事‧社会 客観写生‧主観感動

 みんな みんなの母語でよむ俳句

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齢七十五にてつと去りし日を振り返りみて我自身を知る…
波の間に間に 流されるまま 人を羨むことなく 求めることなく
世間と争わず なれど 荒波に遭うを 免れ能わず
思いもよらない 公務員年金を亨く 多からずとも又 少なからず

命を保つに 憂うこと無し
キーボードを たたいて インターネットに遊ぶ

得るところ有れば 又与える事もあり
名利共に 余生の外にあり
(オーボー真悟)
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 (オーボー真悟)

2010年5月19日水曜日

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私と日本
  私は昭和五年(1930)台湾で生まれました。昭和十三年の初冬父の転勤について京都に移り、そこで小学二年生に転入しました。二年・三年の担任の先生は西野歌子先生、四年生から六年生までは古舘三徳先生でお二人ともひ弱い私をよく庇って下さいました。京都市左京区の北白川国民学校を昭和十八年三月卒業と同時に京都府立一中に合格入学、入学後一ヶ月余りで父の転勤のため退学、台湾台北に帰りました。
  そのころ日本は敗戦の色が見え始め、内台航路は危険にさらされ、高千穂丸はすでにアメリカの潜水艦によって撃ち沈められていました。私の乗った大和丸は船団に組み込まれて駆逐艦護衛の下で三日間の内台航路を七日間かけて中国大陸沿岸を迂回してやっとキールン港に着きました。
  直ぐに中学に転入出来るものと思っていましたが、あにはからんや船便の秘密厳守のため退学手続きもとれず、重ねて当時通信不便のため連絡もとりにくく、とうとう転入学できず一年遅れて昭和十九年四月当時の台北二中に受験入学、一年もたたぬうちに米軍の爆撃が激しくなり二十年のはじめ台北近郊の景尾に一度疎開したが家うらに500キロ爆弾が落下したため又あわてて台湾中部の員林、私の生まれ故郷に疎開しました。
  八月故郷で終戦を迎え、十二月台北に戻りました。台北二中は成功中学と改名し、初中(中学校)と高中(高等学校)各三年に学制が変わり、私たちは中学二年に編入され、その上学年の始まりが八月と変わったため又一年遅れることになりました。私はそこで中学と高校を卒業し、1950年八月に台湾大学(元台北帝大)の医学部に入学、医学部は七年制のため1957年卒業。
  卒業後三年付属病院に勤務、その後いくつかの病院を転々と勤務先を変え、衛生署(厚生省)の国立予防医学研究所所長を最後に1993年リタイアしました。
  その間台湾で研究し1972年鹿児島大学の医学博士学位(論文博士)を取得しました。
  1943年日本を離れてから1972年に博士論文の口頭試問に再び来日するまで29年間日本にきた事はありませんでした。その後来日の機会があれば必ず最後の一日は私が少年時代をすごした京都を訪れることにしています。

京都市北白川国民学校卒業(昭和18年)筆者前列左から3人目、前列校長澤田熊太郎先生と古舘三徳先生

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