虹ノ松原 (唐津)

(2009年十一月唐津鏡山より撮影

遥か下虹ノ松原冬霞 (唐津鏡山)
下界なる虹ノ松原冬霞(唐津鏡山)

唐津湾沿いに、虹の弧のように連なる松原。唐津藩初代藩主、寺沢志摩守広高が、防風・防潮林として植林したのが始まりで、全長5km、幅1kmにわたって続く松は、約100万本と言われています。今では、三保の松原、気比の松原とともに日本三大松原の一つに数えられ、国の特別 名勝に指定されています。NHK「21世紀に残したい日本の風景(BS2)」の投票で、第5位 に選ばれました!(唐津観光協会)

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世界の俳句

有季‧無季 定型.自由律 花鳥諷詠‧人情世故  時事‧社会 客観写生‧主観感動

 みんな みんなの母語でよむ俳句

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齢七十五にてつと去りし日を振り返りみて我自身を知る…
波の間に間に 流されるまま 人を羨むことなく 求めることなく
世間と争わず なれど 荒波に遭うを 免れ能わず
思いもよらない 公務員年金を亨く 多からずとも又 少なからず

命を保つに 憂うこと無し
キーボードを たたいて インターネットに遊ぶ

得るところ有れば 又与える事もあり
名利共に 余生の外にあり
(オーボー真悟)
#お知らせ!!
e-book (オーボー真悟の短詩集)を刊行しました、ご興味のある方は下記のアドレスhttp://www.olddoc.net/oobooshingo-poem.pdf をプレスして下さい、無料でダウンロード出来ます。                    
 (オーボー真悟)

2010年7月4日日曜日

エッセイー002《漢語/漢字俳句》

               《漢語/漢字俳句》 
                         
                ―漢俳、湾俳、粵俳、…、とは?―

                                       呉 昭新(Chiau-Shin NGO; オーボー真悟)

 世界の俳句とは世界中のいろいろな言葉で詠まれる俳句のことである。一外国人として俳句及び世界の俳句についての疑問は別文で述べさせて頂きました。しかし、アルフアベットなどの表音文字で表記される西欧諸国の言葉のHaikuが突き当たる壁や疑問とは異なる問題が、漢字文化圏内の言葉で詠む俳句(広義の)にはあることに出会いました。そこであらたな一文を起こし、私見を述べさせていただきます。


 俳句の基本は十七音節で一章となる短い詩です。漢字文化圏では言葉の表記に同じ漢字を使いますが、言葉によって発音も意味も違うとともに、ここ六十年来、同じ意味を表わす漢字の形(書き方)も違ってしまいました。


漢字の代表である中国の普通話を例に取ってみましょう。


 まず俳句の一番基本になる音節に就いてみると、普通話では漢字一字は皆一音節ですが、日本語では多音節になっています。たとえば中国普通話では「我」の字は一音節で「ウオー」と発音しますが、日本語では「ワレ」と二音節になります。そのうえ普通話の「我」の意味は日本語では「私」の意味で、「ワタクシ」と四音節になります。


 俳句で「私」を表現する場合、日本語の四音節は普通話では一音節ですむのです。日本語では十七音節の四分の一を使ってしまうのに普通話では十七分の一しか使わないのです。その結果、同じ十七音節を使って俳句を詠む場合、普通話で詠んだ場合の意味量、情報量は日本語の俳句の四倍にもなる、というようなことが起こりかねないのです。それゆえ、日本の俳句が十七音節からなると言って、中国普通話で詠む俳句も十七音節、と言うわけにはゆきません。意味量が数倍になる、少なくとも二倍以上になる、そこで、中国普通話で詠む十七音節の俳句は、日本語に訳した場合、短歌以上の長さになってしまいます。


 ご存知の「漢俳」という短い詩があります。ご察しの通りもともとのもくろみは「漢語俳句」のつもりだったのでしょうが、前述の理由でとても俳句とは言えません。とどのつまりは「漢語短詩」になってしまいました。ところが思いもよらず、この「漢俳」が中国では、ここ三十年来一般大衆に広まっています。


 ところで「漢語短詩」に帰せられる漢字で詠まれた短い詩は、漢字文化圏の核心である現今の中国の領域内に、一、二千年前からありました。しかし、特にもてはやされる事はありませんでした。日本の俳句を倣った十七字漢俳も、かつて中国のあの有名な五四新文化運動時代に一時はもてはやされましたが、結局うやむやのうちに終わりました。


 その後、1972年に日中両国が正式に国交を回復し、1894年の日清戦争以来ぎくしゃくしていた日中関係を改善するためか、1980年中華詩詞学会が日本俳句代表団の大野林火らを中国に招いたとき、日本側からは芭蕉、蕪村、子規らの俳句集が持参されたのですが、中国側は歓迎会場で主人の趙樸初氏が十七字の漢字の短詩を即興で詠みました。これが漢俳の始まりだといわれています。その短詩「綠陰今雨來,山花枝接海花開,和風起漢俳」の最後の二字が「漢俳」でした。


 爾来、中国国内では漢俳が速やかに発展し、2005年には北京に於いて「中國漢俳學會」が成立(2005.3.23)したのをはじめとして、中國各地に漢俳學會が成立し,漢俳は中國全國に流行し,近年に至っては更にインターネットの普及と同時に日本文化に興味をもつ若者たちが少なからず創作に参加し,漢俳をして歡迎されるべき「インターネット文學」の一つとしての體裁とならしめました。


 「文学」とは高潔な言葉ですが、究極は政治の掌中から離脱することが出来ません。しかし、文学、文化がほんとうに人類の種族、国家、文化間の闘争反目を和らげる媒体になれるならば、それにこしたことはなく歓迎されるべきです。以後、今日に至るまでの漢俳の中国における発展ぶりは、今田述氏(現代俳句協会会員・葛飾吟社代表理事)が、その著述の中で詳しく述べられていますから、ここでは贅述を避けます。


 最近の漢俳の流行は、2007年4月12日の「日中文化、sports交流年」において日本の實行委員會と日中友好各團體が東京赤坂prince hotelで開いた中華人民共和國總理溫家宝氏の歓迎パーテイで,溫家宝氏が詠んだ漢俳一首に始まり、その後漢俳は更に加速的に中国一般大衆に受け入れられ、日本と同じように子供たちにも歓迎されるようになり、もう一つの新しいブームを引き起こしました。


 1980年の趙樸初氏の「漢俳」の後に、「漢俳の規則」と言うのが設定されました、下記の如くです。


 「中文は単音節言語で日本文の複音節とは違うので、漢俳は俳句の十七音を漢字十七字とする。俳句と同じ様に三句にわけ「五七五」字三行に書き並べるので、「三行詩」とも云う。


 句のリズムは五言と七言の近体詩に照らし、五字句の場合は一般に二三式、三二式、一四式、七字句の場合は一般に二五式、三四式、四三式とする。また別に六一式もある。自由律と格律二種に分ける。自由律と格律を問わず皆季語(季題)を要するものとする。季語は即ち季節をあらわす語彙であるが、日本俳句のほどには厳格に要求しない。季語は普通、句の始めに持ってくる。自由律はまた散型、新詩型とも言い、平仄、対応、押韻を必要とせず、白話で書くのもよしとし、現代新詩に似る。格律型は平仄と押韻を必要とする。漢語の発音は日本語より複雑なるがゆえにその音楽性を重んじることとし、格律を規定するものであり、文言を使用するものとする。」


 ところで、漢詩に関係する短詩として、「曄歌」、「瀛歌」、「偲歌」、「坤歌」というものもあります。これは、葛飾吟社の中山逍雀氏が、日本短詩と漢詩を互換出来るようにするために提案した漢詩の定型詩で、中国の中華詩詞學會にも認定されています。そのなかで俳句に対応する「曄歌」は、「漢俳」が漢字五七五であるのに対し、漢字三四三で作ることを提唱しています。詳しい説明は中山氏の葛飾吟社のホームページをご覧ください。


 漢俳について、当然ながら、前述のような説明に賛成しない人も少なく有りません。と言うのは中国にも古くから短詩があり、そのうえ五四新文化運動以後発達した口語の自由律現代詩にも、長さを短くする空間があるからです。しかし、短さにおいて日本の俳句と同様であっても、その詩形、構造、詩境、内観、詩情においては、大いに異なります。


 一般に詩を別の言語に翻訳する事は容易なことではありませんが、日本の俳句を漢字だけの華語に翻訳するのはなおさらのことで、どうしても元来の日本俳句の形態や詩情をなくしてしまうものです。


 また、最初の漢俳を誰が作ったかについても、趙樸初でなく、それより先に詩人公木の創作によるものと主張する人がいます。これは、最近(2009年)の中国のブログでも論争の対象になっているのですが、本文の本題ではありませんのでこれ以上の詮議はいたしません。


 中国の人たちが漢俳と日本の俳句についてどう考えているかについて、石倉秀樹氏の記述を引用してみましょう。


 >2000年に北京で開かれた『迎接新世紀中日短詩交流会』で、日本の俳句との関係で漢俳が何であるかが話題になりました。中国側からは、


・ 広大な中国では季語の共有は難しい。


・ これからの作詩は、都市の生活や現代科学技術などの現代的な事象に詩材を求めることが重要である。季節をめぐる抒情は古い。


・ 言葉の意味量のうえで、漢俳が日本の俳句をずっと上回るものであることはよく承知している。しかし、中国人にとっては、詩情を味わううえで一定の音の量が必要。十七音は短くできる限界に近い。


 などなど、日本の俳句と同じ詩境をめざすことは難しい、という意見が多数ありました。


私が思うに、ですが、漢俳は、日本の俳句から学ぶものがあるにしても、中国の詩である以上、日本の俳句とは違って当然、という考えのもとに詠まれていると思います。だから、「漢俳」という呼称なのであって、「俳句」ではないのです。


 筆者は、石倉氏は間違っていない、と思います。「漢俳」は確かに「俳句」ではないのです。漢語短詩であり、ただ十七音節だけが同じと言うだけです。「漢俳」が俳句でないと言う見方は私一人の考えでありません、漢俳が流行る一方、漢俳が俳句ではないという漢語系言葉の作家による見解もネット上で見られます。


 中国の人たちが「季節をめぐる抒情は古い」と言う一点はよく理解できます。世界の俳句と言う場合、地球各地における気候風土の異なるのは常識であるのはもちろんです。その上この目まぐるしい情報過多の時代において、人間は生きるためにいろいろな情報を知らなければなりません、いや、知らざるを得ない破目に追い込まれている、だから、情報過多という言葉そのものも言い過ぎではないと思います。人間は先ずいきることが第一で、命あってはじめて文明あり、そして文化があり、詩が生まれて来るのです。「季節」だけにこだわるのでは、時代の進歩についてゆけません。


 この目まぐるしい時代、中国では一般の人々は平仄押韻を考える暇を失くしてしまいました。と同時に、風花雪月ばかりに何時までものめり込むのは「無病呻吟」ではないかといわれ、すでに五四運動の時代に敬遠されて、今日に至っているのです。


 「花鳥」は自然のたとえ、「諷詠」は詩歌をうたい作ること。「花鳥風月」は華語では「風花雪月」に相当しますが、意味は少しではあるが違うようです。「風花雪月」には「花鳥諷詠」の自然の美しい風景を意味するほかに、綺麗なる字句をならべるだけで内容がなく、また花柳界に遊興することをさす意味が含まれています。


 日本俳句で「花鳥諷詠」はいまや藤原道長の「この世をば……」の全盛期そのもの、日本俳句界のみならず世界俳句界にも足を伸ばしています。しかし、世界は俳句そのものは受け入れても、花鳥諷詠や季語までをもひっくるめて受け入れるものではありません。


 日本でも事情は同じだと思います。花鳥諷詠のみに縛られ、もっと身近に起こっている毎日の出来事の中での感動を詠んではいけない、という規制に、不快を感じる方がいらっしゃるようになりました。


 私には、風花雪月とか花鳥諷詠などの古漢詩や俳句を冒涜しようという思いや、それを詠んではいけないと言うつもりはいささかもありません。しかしそれらは、一般庶民ではなく、一部の、特に文学の資質素養のあるエリート族が享有する天才的才能からはじめて生まれてくる優雅な文芸なのです。一般庶民が無理に真似をしようとすると、いわゆる月並みの俳句や詩になってしまうのです。一般庶民は、毎日の生活のなかで身の回りに起こる多くの事象、その感動から生ずる詩情を大切にし、それらを詩や俳句に詠むほうが、詩料が豊富で、また適切だと思います。


 しかし私は、十七字が漢詩の最小限度という見方には同意しかねます。漢詩には十七字以下の短詩がざらに有ります。石倉氏の詩作の中にも多くの例があります。十字またはそれ以下でもけっこう詩情を訴えることが可能なはずです。そしてそれが、漢語俳句/漢字俳句を目指す人々の究極の目標であるはず、私は今それを、試しています。 


 「漢語/漢字俳句」を私は表題としています。それには訳があるのです。「漢語俳句」と「漢字俳句」は深く考えてみると、違いが確かにあるのです。「漢語俳句」は漢語の俳句、即ち今の中国にあたる地域で使われていた言葉、または使われている言葉で詠まれる俳句です。例えば中国の標準語にあたる普通話、またそれと同じ言語学的性質を持つ漢語系の台湾語、客家語、広東語、四川語、……などで詠まれる俳句を指します。これ等の言葉は一字の漢字は皆一音節で、言葉を書きとめる場合、漢字以外は使いません。


 一方、「漢字俳句」について話しますと、日本語は、2131字の新常用漢字および7000字余りの漢字を活字媒体では使っていますが、話す言葉を字に書く場合に漢字のほかに仮名を併用します。そういう日本語で漢字だけで俳句を書いた場合、それは「漢字俳句」ではありますが、「漢語俳句」ではありません。漢字だけを使っているとしても、使われている漢字が漢語でなければ、「漢語俳句」ではないのです。同じ漢字でも漢語と日本語では意味が全然違う場合があります。例えば日本語の「大丈夫」は日本ではもう字面通りの漢語ではなく「漢字日本語」になっており、生粋の日本語です。「大丈夫」は日本語では「安心、危険なし、…」の意味ですが、漢語では「立派な男、偉大な男、…」をさします。


 同じ漢語系でも文語の場合は一応お互いに意味が通じますが、口語の場合は、同じ事や物を指す言葉が違っていることがよくあります。日本語の「お月様」、「お日様」は普通話では「月亮」、「太陽」と言いますが、台湾語では「月娘」、「日頭」といいます。


 そして漢字もいまでは、中国、日本、台湾でそれぞれ字形が違います。例えば日本語の「読書」、中国語では「读书」、台湾語では「讀書」と書きます、また、発音も違います、日本語では「dokusyo」、中国語では「dushu」、台湾語では「takkchu」と違います。


 門外漢のうわ言かも知れませんが、私は、はじめは「漢俳」はあくまで「漢字で書いた真の俳句」でなければいけない、と考えておりました、でも、いま詠まれている「漢俳」は、詩のジャンルでの新しい詩形の短詩ではありますが、俳句とは絶対に言いかねます。


 確かに押韻、平仄は、古くは漢詩を詩たらしめる為の必須不可欠の条件でした。しかし、そのややこしさのために、かえって一般大衆から敬遠される破目になりました。その結果、中国では五四新文化運動の後、前述の如く口語自由律の新詩が生まれたのでした。


 今の台湾、そして中国でも、口語新詩(自由律)が主流です。いわゆる伝統漢詩を嗜む人は余り多くはありません(失礼な発言ですまないと思っていますが、それが事実です。しかし彼らは、少数のエリート詩人です、詩人はそうざらにいるものではありません、天賦の素質がなければなりません。)。


 口語新詩(自由律)が主流。と言いますのも、シニカルですが、今の「普通話」では、押韻はまだよいとしても、平仄を区別することには多くの人がまごつくからです。普通話では、いわゆる入声はみな四声の中に組み込まれてしまっています。そこで、特に一字一字の平仄を覚えることは、詩そのものを理解するだけでも困難な一般大衆にとっては、難しいことなのです。


 「中華新韵」は古音と今音の違いを補うために作られたのですが、決して正確ではありません、今に残っている有名な漢詩は皆古音で詠まれた詩です、そこで「中華新韵」の平仄と違うという矛盾が出てきています。そして、もっと皮肉なことは、台湾語には漢語の古韻が多く残されており、古詩を台湾語の読音で詠むと普通語より遥かに詩韻に富む詩吟を楽しめるのです。日本語の漢字の音読みで呉音を択んだ場合、その発音は普通話の発音よりずっと台湾語の読音に似ています。


 上掲の漢語の意味、形、発音の違いは、もとを正せばみな昔の漢字から変異して来たものです。もしいにしえの漢字がなければ、今の中国文化も日本文化も、なかったことでしょう、片仮名も平仮名も、そして万葉仮名も。


 そして、逆に現代漢語の多くは、「和製漢語」であり、明治時代に日本で創作され中国に逆輸入されたものです。例えば「経済」、「科学」、「哲学」…等。また、中華人民共和国の成立後、漢字の字劃を少なくするために簡体字と言う新漢字が数多く作られました。そして、それら多くの新字は、そのオリジナルの字を想像することさえ出来ないほどに変わっています。その上、発音が同じか近いと言うだけで、意味が全く違ういくつかの字を一つの字で表わすなど、文章の了解に不便と混乱を来たし、社会の反発を買い、あげくは第二段階の簡体字は公布(1977)のあと九年で(1986)取り止めざるをえないありさまでした。一方、日本の漢字も戦前の漢字と違う字がだいぶあります。(中国では、今や昔の正字に戻そうと言う動きが民間で燻っています、ただ今の中国の政治体系ではむずかしいと思いますが、何時かその日がくると思います。社会は時々刻々かわっています、そして人々の考えも……。)


 「漢語/漢字」に内在する多様性を克服して「俳句」であるにはどうすればよいのでしょうか。その多様性、だからこそ、俳句の真の意味または真髄として、短い、瞬間の感動、と言うことを忘れてはいけない、と思います。いかにすれば瞬間の感動を適切な最短の音節で表せるか、その最短の音節数はいくつであるか、それを模索しなくてはなりません。


 それが、「漢語俳句」の字数になるわけです。私にはそれが、今のところは十字、というように思えます。そして、その十字を次に、三四三、三七、五五、七三のいずれとするかは、今はまだ検討中です。私の試作句が三四三なのは、いまは三四三で試作しいると言うだけのことです。多分結論は、三四三、三七、五五、七三、どれでもいい、ということになるでしょう。そして、十字というのは基準であって、前後二、三字の字余り又は字足らずを許すものであります。


 漢語俳句は詩である以上、リズム(律動)のあるのが最高です。そして、前述の三四三、三七、五五、七三のどれにするかは、その句その句のリズムによって決まるのです。とくに漢語の読音は一字一字声調があり又地域の言葉により読音も声調も違います。それにともない、リズムも違ってきます。そして、自由律と言う場合、字数に制限がありません、それは自由詩であって、俳句ではありません、適切なる最短の詩、と言う俳句の核心に合わないからだと思います。


 字数だけに縛られると言うのは?という方もございますが、秋元不死男氏の、ある程度定形に縛られると言うことが俳句の俳句たる由縁、という説明も理解できます。秋元氏も俳句の定形はもともと文語を基にして決められたもので、口語で俳句を詠む場合、すこし窮屈であると言っておりますが……。


 結論として、俳句と漢詩、詞は、詩のジャンルにおいて異なる詩形であることは明白です。そこで、いま流行の漢俳は、本質的に俳句とは言えません。ですが、正真正銘の漢詩の一つです。


 私は、日本語でも俳句を作りますが、日本語の俳句が台湾で育ちゆく希望が薄いなか(絶対に不可能とはいいませんが)、真の漢語俳句(今の漢俳ではありません)の一員として、または世界の俳句の一員として、普通話と台湾語と客家語、……で詠まれる俳句(普通話俳句、台湾語俳句、客語俳句、……)を模索中です。もしそれに成功すれば、拙文中の「湾俳/台俳」、「粵俳/広東俳」、「客俳」、「滬俳/上海俳」、それから漢字文化圏内における各地言語の俳句が、生まれてくるはずです。私の目指す「漢語俳句」は、日本俳句を模範とし、また模倣するのではなく、日本俳句の真髄、本質を汲む世界俳句の一つたる「漢語俳句」、その下にある漢語系各言語による俳句、「普通話俳句」、「台湾語俳句」、「広東語俳句」、「客家語俳句」……を目指しているのです。普通話、台湾語、広東語、上海語……みな同じレベルにあって上下主従があるものではありません、でも決して今の「漢俳」ではありません。


 ネット上の「湾俳」を読んだところ、惜しむらくは、いわゆる「普通話」の語彙をそっくりそのまま湾俳に使っているのを見かけますが、それは外国人の一寸した勘ちがいから来たものです。もとを正すなら、おそらく台湾の俳人黄霊芝氏が「湾俳」は七字から十二字までが適当だと主張したためではないか、と思います。


 黄氏に間違いはありません、彼は俳句の真髄本質をよく理解している日本俳句の達人であるがゆえに、漢字で詠む漢語俳句は漢俳の十七字では意味量が余り多すぎ、七字から十二字までの長さがよいと湾俳で勧めたのです。しかし、その趣旨がとり違えられ、七字から十二字までの漢字俳句は「湾俳」、十七字は「漢俳」、と勘違いされたものと思われます。漢語圏内では漢字の表わす意味はみな同じで発音が違うだけだと思われているからです。実際は違うのです。例えば、日本語の「床(ゆか)」は、中国語では「地上」、台湾語では「土脚/足+交」と言います。文語で詠んだ場合は漢字文化圏内では一応相通じる場合が多いのですが、口語では意味が異なってしまう場合が多いのです。(なお、日本語では文語でも意味が全然違う事が少なくありません、往々にして大きな誤解を招くことさえあります。)


 また、台湾語の声調は、七声で普通話の四声より三声多く、そのうえ会話、読書、詩吟で発音する場合、前の字の声調が必ず変わります、そのため外国人が聞いた場合、音楽のように聞き取れます。そして、その反面、台湾語で歌う歌は、歌詞を聞き分けられず、字幕を必要とします。また、漢詩を吟じる場合は、台湾語で吟じるのが最高だと一般に言われています。


 漢語の短詩に四七令とか五七令とか言うのがあります、そして字数は十一字または十二字になります。しかし二句一章の漢詩であり、もしその二句一章が季語や客観写生を抜きにしての俳句の本質に合うものならば、立派な漢語俳句であると思います。私は漢詩を詠めませんので試すことが出来ませんが、日本で漢詩と俳句両方をお詠みの方は、この十字前後の漢詩を詠んでみてください。十七字の漢俳でなく、もっと少ない十字あたりで「漢語俳句」、「漢字俳句」が詠めるはずです。しかし、季語、客観写生のおきまりは考慮してもしなくても構わない、と言う了解の下でのことです。


 私の僭越な未熟な考えですが、私自身は日本俳句を詠むに当たって無季、自由律を択びます、ただし、定型、有季で詠めるときはやはり定型、有季を遵守します。そしてこの態度は、漢語俳句においても同じです。「漢俳」はもう日中両方の共同の定義認識があり、多くの作品も有り、皆に親しまれているゆえ、そのままあたらず触らずのこととして、「五七五の漢字の俳句、実際は新しい短い三行の漢詩」として残し、ただし日本の俳句に基づく「世界俳句」の中の「漢語俳句」としては、漢字十字をいちおうの基準とし、前後二、三字の増減を許容する「俳句」を作りたいと思います。五七五、十七字の漢字では、俳句としてあまりに内容量が多過ぎます。


 ここ暫く、あれこれ考えましたが、日本の俳句は主位に来る語彙の後につづく「てにをは」によってさまざまに異なる意思表示が出来ますが、他の国の言葉にはそのような便利さがありません。それが、俳句を他国語に翻訳するのを難しくしている原因じゃないか、と思います。この点については、私は言語学者じゃありませんので大きな事はいえませんが、私は私なりに、前述の十字の漢字を基準として、前後二、三字の字あまりや字たらずを許容する漢語の俳句を、「漢語俳句」と言いたいのです。


 さて、その命名が問題になります。「漢字俳句」、「中俳」、「漢語haiku」、「Mandarin haiku」、「漢普俳」……とか。ひょっとしたら「漢普俳」が一番手ごろかと思いますが、最後に落ち着くところは……。


 最後に私の漢語または漢字で詠まれる「漢語俳句」、「漢字俳句」に関する結論を纏めて見ます。


 まず、「俳句」とは言葉によって表現しうる最短に近い「詩」である。とします。その内容・本質は、江戸時代の「俳諧」の本質に基づいて子規の規定する「俳句」の定型を基準とします。ただし、


 ● 世界各領域の言葉での俳句は、各言葉に於ける最短にして適切なる音節数による短詩であり、人生に於ける全ての瞬間的感動の詩情―自然の写生‧人事‧倫理‧論理‧哲学を問わず、又主観、客観を問わない―を余白を残して詠む詩であると認識する。(虚子の客観写生説は諸家による誤解との説も全く無根拠とは思われぬゆえ、採択の可否は詠む人に残すものとする。) 


 ● 漢字または漢語で詠まれる「俳句」をまとめて「漢字俳句」または「漢語俳句」と呼ぶ。即ち「漢字」と「漢語」に、上述の「漢字」と「漢語」に区別される両方の意味を持たせる。


 ●「漢字/漢語俳句」は、できるだけ少ない漢字で、各地域の言葉(字形、語彙、発音)によって詠むものとし、人生の全ての感動、即ち自然‧愛情‧情理‧人事‧論理‧倫理‧哲学などの主観的瞬間や客観写生の感動を、「読み」‧「鑑賞」の余白を残す二句一章一行に詠むものとする。


 ・「漢字/漢語俳句」は、日本の「伝統俳句」が定義する「客観写生」に限定されるものではない。


 ・日本語俳句における季語は「漢字/漢語俳句」では必ずしも必要としない。


 ・字数は暫時十字を基準とし、韻律(リズム)宜しければ、前後二、三字の字余り、字足らずを許容し、漢詩における押韻、平仄の有無を問わず、口語、文語の双方または混用を受け入れて詠むことを許容する。


 ●「漢字/漢語俳句」は漢字の使用を共有するが、漢字を使う広い文化圏の各地域の言葉の違いによって、発音、意味、語法または字形を異にし、各言葉ごとの個有性があることを深く認識する。それゆえ、その各言語ごとの「俳句」は、それぞれ個有に命名される必要がある。


  例えば: 


A)「華語‧普通話俳句;華俳/普俳」、「俳句(華語‧普通話)」は中国の普通話での俳句を指す、


 「台湾語俳句;湾俳/台俳」、「俳句(台湾語)」は台湾語での俳句を指す、


 「客語俳句;客俳」、「俳句(客語)」は客家語での俳句を指す


 「広東語俳句;粵俳」、「俳句(広東語)」は広東語での俳句を指す、


B) 同様に世界各国語で詠まれる俳句は:


 「英語俳句;英俳」、「俳句(英語)」


 「フランス語俳句;仏俳」、「俳句(フランス語)」


 「ドイツ語俳句;独俳」、「俳句(ドイツ語)」


 「リトアニア語俳句;リトアニア俳」、「俳句(リトアニア語)」


 そのほか、上の例に倣って命名す。


C) 英語表記に場合は以下の如くす:


 「Mandarin Haiku or Haiku (Mandarin)」,


 「Taiwanese Haiku or Haiku (Taiwanese) 」,


 「Hakka Haiku or Haiku(Hakka)」,


 「Cantonese Haiku or Haiku(Cantonese) 」,  


 「English Haiku or Haiku(English) 」,


 「French Haiku or Haiku(French) 」,


 「German Haiku or Haiku(German) 」,


 「Lithuanian Haiku or Haiku(Lithuanian) 」


………。


【参考:書目、ホームページ、ブログ】


楠木しげお:《旅の人-芭蕉ものがたり》、銀の鈴社、東 京、日本、2006.


嶋田青峰:《俳句の作り方》、新潮社、東京、日本、1941.

高浜虚子:《俳句読本》、(日本教養全書-14)、p222-353;平凡 社、東京、日本、1974.


鷹羽狩行:《もう一つの俳句の国際化》、    


    (第17 回HIA 総会特別講演より)(2006. 6. 6)


http://www.haiku-hia.com/pdf/takaha2006.pdf (2010-06-26 reached)


秋元不死男:《俳句入門》、角川学芸出版、東京、日本、 2006.


朱實:《中國における俳句と漢俳》:日本語学:14: 53-62.1995。


佐籐和夫:《西洋人と俳句の理解―― アメリカを中心に――》:日本語学:14:12-18.1995。


現代俳句協会編集委員会:《日英対訳21世紀俳句の時空》、永田書房、東京、日本、2008。


木村聰雄:《20世紀日本的俳句──現代俳句小史》。《21世紀俳句の時空》pp2~41. 2008, 永田書房、東京、日本、2008。


夏石番矢《Ban’ya》http://banyahaiku.at.webry.info/ (2010-06-26 reached)


石倉秀樹:《獅子鮟鱇詩詞》http://shiciankou.at.webry.info/ (2010-06-26 reached)


オーボー真悟(呉昭新):《俳句を詠む》http://oobooshingo.blogspot.com/


今田述:《漢俳を知っていますか?》 (2003)http://www.haiku-hia.com/hyoron_jp_ch1.html (2010-06-26 reached)


今田述:《21世紀と漢俳》(2009.12)


http://www.haiku-hia.com/hyoron_jp_ch.html (2010-06-26 reached)


姚大均:《漢俳還不如蘇俳》, http://www.post-concrete.com/blog/?p=366 (2010-06-26 reached)


北縣縣民大學「俳句教室」(1)(2)(3)(4)》,「臺灣俳句集(一)」,1998,pp.52~70,台北,台灣。


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(2010年6月28日 脱稿)


  呉昭新(http://oobooshingo.blogspot.com/ ) 


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