虹ノ松原 (唐津)

(2009年十一月唐津鏡山より撮影

遥か下虹ノ松原冬霞 (唐津鏡山)
下界なる虹ノ松原冬霞(唐津鏡山)

唐津湾沿いに、虹の弧のように連なる松原。唐津藩初代藩主、寺沢志摩守広高が、防風・防潮林として植林したのが始まりで、全長5km、幅1kmにわたって続く松は、約100万本と言われています。今では、三保の松原、気比の松原とともに日本三大松原の一つに数えられ、国の特別 名勝に指定されています。NHK「21世紀に残したい日本の風景(BS2)」の投票で、第5位 に選ばれました!(唐津観光協会)

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世界の俳句

有季‧無季 定型.自由律 花鳥諷詠‧人情世故  時事‧社会 客観写生‧主観感動

 みんな みんなの母語でよむ俳句

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齢七十五にてつと去りし日を振り返りみて我自身を知る…
波の間に間に 流されるまま 人を羨むことなく 求めることなく
世間と争わず なれど 荒波に遭うを 免れ能わず
思いもよらない 公務員年金を亨く 多からずとも又 少なからず

命を保つに 憂うこと無し
キーボードを たたいて インターネットに遊ぶ

得るところ有れば 又与える事もあり
名利共に 余生の外にあり
(オーボー真悟)
#お知らせ!!
e-book (オーボー真悟の短詩集)を刊行しました、ご興味のある方は下記のアドレスhttp://www.olddoc.net/oobooshingo-poem.pdf をプレスして下さい、無料でダウンロード出来ます。                    
 (オーボー真悟)

2013年6月13日木曜日

台湾の俳句史-(簡略版)

           台湾の俳句史(1895~2013)(簡略版)                                       
                       呉昭新(Chiau-Shin NGO)
俳句は「俳句」、「HAIKU」として今や世界中のあらゆる言葉を使う人々に受け入れられている。だが俳句の源泉国である日本ではどうかと言うと、まだまだ大多数の俳句フアンは、俳句は日本語で定型有季、花鳥諷詠でなくてはならないと思い込んでいる、または強引に主張する人さえいる。

「HAIKU」は日本語以外の言葉(外国語)で詠まれる俳句で、漢字だけで詠まれる「漢語俳句」をも含み各言語で普及しているが、その定則には一定の規制はなく、ただ一番短い三行詩だという理解で受けいれられている。外国語といえば一応アクセントというのがある、それでアクセントを気にするものもいるが、相手にしない者もいる。季節にいたっては南半球と北半球ではまったく反対であり、国や地域によっても大いに違っているし、季節がない地域もあるので、共通の季語は不要と考える人など、さまざまである。また季語を入れても季感をなさず、季語本来の意味をなくしているので、取らぬ人も多けれど、他方日本の伝統派に倣ってなんとか季語を入れる人もいる、が季感がない。季語ではなく生活、社会に関するキーワードを使う人もいる。いずれにせよ、「Haiku」は短詩の一ジャンルとして世界的な広がりを見せている。米英を中心に英語俳句や欧州各語の俳句があり、アジアでは諸言語で俳句が詠まれている、とくに漢語系諸国では漢俳として,中国で持てはやされているが、後述するように、「漢俳」は一種の新型短詩ではあるが絶対に俳句ではない。(世界俳句第7巻、2011、参考)。

明治の日本で子規が客観写生を提唱したその時期に、西欧では、日本から伝わった芭蕉や一茶の発句が、西欧諸国語に翻訳された。俳句の翻訳は詩としての詩情内容を損なわず、相当的確に翻訳されるのが可能であることが証明された、ただ日本語特有の掛詞、文化的記憶を除いてのことである。欧州理事会のヘルマン・ヴァンロンプイ常任議長は、句集『Haiku』まで出している。俳句(HAIKU)は韻律なき詩であるがゆえ、俳句はどのような言語を使用しても、作ることができると言われるが、鮮明なる外在韻律がないと言うだけで、俳句には詩想のうえで感じられる内在律がある。

これらはさておき、この小文においては、広い意味の俳句(HAIKU)の立場から台湾の俳句事情について述べさせていただきます。

さて、台湾での俳句事情はどうかと言うと、その他の国とは大分違っている。台湾が日本の統治下になったのは1895年(明治28年)、子規が客観写生を説き、柳原極堂が「ホトトギス」を創刊するのを指導したのが1897年(明治30年)、そして台湾での日本語教育は伊澤修二らによってすぐ始められた。最初は六名の教師が原住民部族の襲撃によって惨死するなどの悲劇があったが、漸次小学校、中学校、高等学校、師範学校、各種専門学校、帝国大学の設立があり、爾来終戦当時にいたるまで50年の間に日本語教育を受けた台湾人の数は日に増し、教育機関数の統計記録から大よその推定ができる。1900年頃の台湾総人口数は約300万人、終戦二年前の1943 (昭和18年)年の統計では、約600万の人口で、内日本人は約60万人である。そして台湾人児童の就学率(義務教育)は男子93%、女子85%、1920年代(大正後期)の33%に比較して大幅の躍進が見られる。1944年4月において、国民学校と中学校の学生数は975,593(内台湾人890,676人)、高等学校以上の学生数は含まれていない、このほか、島内での進学に阻まれた多くの台湾人学生は、自由に制限されていない本土の学校へと進学した。つまるところ、終戦当時、1910以後出生人口のうち、以上あげた人たちはみな日本語をよくする人たちであるという事実である。

さて私が言いたいのは、終戦をメルクマールとしてみる時、台湾人で中学までの教育を受けた人たちは俳句を詠もうと思えば日本人と同じ能力を持っていた、それゆえその時点、特にそれ以前30年間における台湾の俳句事情は在台日本人と台湾人を問わず、日本本土におけるのと同じである。ということは日本で俳句がどういう人たち、社会層、年齢層に受け入れられているか、また俳句結社、俳誌や有季定型、自由律,無季非定型などの絡みについても、台湾でも日本本土と同じであると言うことである、たとえば小学校や中学で教わる俳句、女性や高齢者に俳句を詠む方が多いことなど。が、事実は少しズレがあった、同じく日本語が使えても台湾人で俳句を詠む人は日本人ほど多くなかった。

台湾で日本統治時代における俳句事情に関しては近10年来、台湾または日本で日本文学を専攻された人たちや日本で台湾の日本語文学に興味を寄せた人たちによってすでに多くの整理研究がある (阮文雅、沈美雪、蘇世邦、周華斌)ほか、日本人の島田謹二、阿部誠文、磯田一雄らによっても紹介されている。ただ外国語俳句「HAIKU」については、まだである。

この小文では、日本統治時代の俳句事情については上掲諸氏の研究論文から引用させてもらい、戦後における俳句およびHAIKUについて、そして台湾人の跨言語世代の様相については私見を述べさせていただくつもりである。 

台湾は明治28年(1895)に清国より日本に割譲された。沈美雪氏によると台湾における俳句受容は、旧派も新派もほぼ同時期に並行して流入してきたとされている。初期の台湾俳壇は日本人のみで、『台湾日日新報』の俳句欄「日々俳壇」の選者を勤めた高橋窓雨などの旧派宗匠がリードしていたが、子規の高弟である渡辺香墨の台湾赴任により、子規の俳句革新に同調する俳人も増え、『ホトトギス』創刊(1897)の翌年にはすでに台湾在住の俳人の投句も見られた。

窓雨は明治30年(1897)6月に渡台し、明治31年(1898)に『台湾日日新報』が発刊されて以来、同紙の俳句欄の選句をし、初期の台湾俳壇における一大勢力を作った。明治35年(1902)4月には村上玉吉(神洲)を主幹とした文芸雑誌『台湾文芸』が刊行された。『台湾文芸』は俳句専門誌ではないが、俳句を主とし、短歌小品その他を掲げたが同年の第5号をもって発刊停止となった。『相思樹』はホトトギス系の結社「竹風吟壇」の同人を主体として明治37年(1904)5月15日に発行された俳誌である。

『相思樹』の誌名の相思樹はその閑雅な姿から台湾では歩道の並木あるいは鑑賞として至る所に植栽され、南国的情趣の溢れる植物として台湾の俳人に愛されている。『相思樹』の選者だった香墨・鳴球・李坪の3人は『相思樹』を通して明治期台湾俳句界の基盤を作った先人である。また作品の面において台湾俳句には異文化の交流と融合が見られ、内地趣味ではなく台湾特有の季題趣味を研鑽しはじめたのも『相思樹』の俳人たちであり、その集大成が明治43年(1910)に出版された李坪の『台湾歳時記』である。

一方明治40年時代に河東碧梧桐が提唱した新傾向俳句が全国を席巻する勢いを見せた中、台湾でも河東碧梧桐の来台を機に、李坪や空鳥らによって発起された緑珊瑚会が碧派の句会に転じ、碧梧桐の唱導する新傾向の俳句をめざして、固定した季題趣味から脱しようと模索し努力した。それに対して、『相思樹』同人は新傾向に興味を示しつつも、ホトトギス系の俳誌を標榜し、緑珊瑚会を批判した。

大正時代の台湾俳壇は、諏訪素濤を中心とした河東碧梧桐系の「新傾向」俳句が一世を風靡しており、『熱』や『麗島』といった雑誌が発刊されていた。しかし、大正9年には『うしほ』が、翌大正10 年には、山本孕江の主宰する『ゆうかり』 が創刊され、昭和初期の台湾俳壇は「ホトトギス」派の「ゆうかり」の全盛の時代に入っていった。

『ゆうかり』は昭和の台湾俳壇を代表する俳誌でまた最も長く続いた(大正10.12~昭和20.4)。当初の雑詠選者は前年渡台した「ホトトギス」の佐藤夜半であった。大正12 年9 月からは、東京の渡辺水巴が雑詠選者となったが、同年11月以降は村上鬼城が雑詠選者となる。その後、「ゆうかり」社創立10 周年にあたる、昭和6 年10 月からは、孕江が雑詠選者となり、昭和4 年5 月からは、阿波野青畝が「ゆうかり句帖」の選者を務めた。

台湾の俳句における季題、季語は当然日本本土とは同じである筈がなく、台湾特有の季語あり、たとえ同じ季語であっても日本での季感とはずれがあった。

「椰子」と「水牛」は台湾季語を代表しまた「熱帯季題」でもある。

水牛の角にたばしる霰哉 (明治37年4月) 烏 犍

「水牛」は昭和期においては「椰子」に次ぐ俳材として台湾俳句によく詠まれた。台湾の季題を集めた最初の歳時記である小林李坪の『台湾歳時記』には水牛について次のように述べられている:「水牛は黄牛に比して怜悧であつて、且つ奮怒する時は危險が多い、然かし又愛情は濃厚であつて、牧童は犬の樣水牛を愛するのである。水牛は平素見馴れぬものを見た時は、奇異の聲を放つて鳴き、或は之を襲撃することもある、又頗る水を好んで、陽熱酷しい時には、常に泥中に轉んで、全體に泥を塗り、或は水に没して、頭若くは鼻のみを水上に出し、數時間に亘ることがある、之れ水牛の名ある所以である。」 当時本土からの移住者はこの水牛に興味を感じる一方また恐怖を覚えた。

蘇世邦氏は俳誌『ゆうかり』所載の「椰子」の句を分析し、台湾俳句に於ける「椰子」の「本意」を探求し、台湾俳句にとって虚子の「熱帯季題論」はどういう意味を持つかを考察し、季題と現実の間にはずれがあるものであるが、台湾では「気候風土」の違いによる、そのズレが大きすぎると、そして虚子が「熱帯季題」を夏の季としたのは、「季題」と「客観写生」(「花鳥諷詠」)とを両立させるためであり、本をただせば、伝統擁護のためであった。虚子は「日本本土に興つた俳句はどこ迄も本土を基準として、その歳時記は動かすべからざる尊厳なるものとして、熱帯事物は一括して『夏』の季に概当すべきで、でなければ内地の季題に混乱を来してしまう」と考えていたからである。しかし台湾在住の俳人にとって、「熱帯季題」と「客観写生」とは両立するものではなかった。それは、眼前にある春や秋の季感を持った季物を詠じようとしても、「熱帯季題」により夏の句として詠まなければならなかったからである。

台湾に関する歳時記は二冊しかない、一冊は前掲の小林李坪の『台湾歳時記』である。これは日本統治時代に出版された唯一の歳時記で、二冊目は戦後2006年黄霊芝による『台湾歳時記』である。

小林李坪の『台湾歳時記』の構成は、春夏秋冬の四部立になっており、月ごとの分類はしていない。また、旧暦に拠っており、正月を春に入れている。季題の分類は人事・動物・植物の三部類となっており、天文・地理などは収録していない。四季別に見ると、夏が多く、冬が少ない。事項別に見ると、植物と人事は多いが、動物は極端に少ない。また特に、粟祭、釈典、媽祖祭、関帝祭などの祭りに詳しい解説が為されている。李坪は水辺での「洗濯」を台湾の特別な風俗として季題にしているのであるが、その後、台湾の「洗濯」は、水牛、椰子、龍骨車、龍眼肉、荔枝などとともに、台湾を代表する風物として「台湾みやげ」用の絵葉書にもなっているところを見ると、当時の日本人には余程珍しく感じられたことがわかる。でもそういう光景は今ではもう見られない。季語の本質も時代の移り変わりによって変わるのだ。また台湾にも台湾の四季がありで、台湾に永く住めば、かなり敏感になってくるのだ。しかし同じ台湾といっても、島の南北では季節感が異なり、対処に困る結果となる。

台湾における第二冊目の歳時記 『台湾俳句歳時記』 は皮肉にも日本人が台湾を去ってから58年後の2003年まで待たなければならなかった。独自の季節感のある台湾では、当然「台湾季語」があるべきであり、全部で396 の台湾季語(正題季語)があり、各8句ずつの例句と解説をつけて編集したもので、言語的には台湾語の季語が220 項目と過半数を占め、日本語が161 項目、客家語が2項目、中国語(北京語)が13 項目と多岐に渡っている。人事、自然・天文現象、自然・動物、自然・植物に大きく四分類され、季節も春夏秋冬ではなく、暖かい頃・暑い頃・涼しい頃・寒い頃と分けている。ただし人事にはこれに年末年始が加わり、自然・天文現象はこの分類に従っていない。黄霊芝氏の『台湾俳句歳時記』は、台湾俳句への第一歩であると言えるが、しかし「写生」にこだわりすぎて、「季題」と「現実の風土」とのずれをひきおこす結果になったのであり、またそれら季語には相応の季感が感じられない。俳句を詠じることは、現実をカメラで写し取るようなものではなく、「季題」を通して「文化的な記憶の世界」と「現実の世界」とに出入して逍遥する事である。ここで問題となるのは、「台湾季題」の「文化的な記憶」である。明治時代に初めて「台湾季題」となったものは、当時の日本人が珍しいと感じた台湾の事物であった。「台湾季題」を詠じた台湾俳句に佳句があまりなかったのは、「文化的な記憶」を持たない季題を詠じなければならかったからである。台湾人には台湾人の「文化的な記憶」があり、日本人の「文化的な記憶」とは同じ点もあれば、異なる点もあるはずである。台湾で俳句を詠むには、台湾特有の「文化的な記憶」を探るべきである。

日本語俳句:俳句は日本に起源するゆえ、日本語で詠まれるものである。明治維新後国際交流が始まると自然そこに文化の交流があり、俳句は最も難しいといわれる詩の交流の中でいち早く世界中に行き渡ったのだ、何故だろうか?虚子の有季定型花鳥諷詠を死守する伝統派俳句の定則を以てすればそうではなかっただろう、が世界の詩人は彼らなりに俳句の本質を解釈し世界の各言葉で彼らなりの俳句を詠んだのが『HAIKU』なのだ。そのHAIKUの本質が伝統派の言う俳句の本質そのものなのかどうかは定見がない、正直のところ伝統派の定則が俳句の本質であるかさえも問題である。この俳句の本質の問題は『HAIKU』だけでなく、本場の日本国内でも存在するのであるが、有耶無耶の中で伝統派の言い分を鵜呑みにしているだけで、事実は問題があるが、みな好き勝手に解釈しているだけである。

さて台湾ではどうかと言うと、戦前においては明治と大正の半ばまでは俳句は在台日本人の専有物で、俳句について揉め事があるとすればそれは日本本国のそれと同じで変わりはない、ゆえに旧派もあれば新派もあり碧梧桐や放哉などの自由律派もある、そして、大正後期から昭和に至っては台湾人の参加も見られるようになった。上述の季語、季感、熱帯季語などは季節違和の問題のほかに日本人と台湾人俳句には同じ季語を使っても内容的には相異があった。日本人はただ周囲の自然界の描写の花鳥諷詠が主だったが台湾人の俳句には日々の生活の出来事や人事に関する直接に人間を詠む句が多かった。戦争が始まるといわゆるの戦争俳句も数多く詠まれるようになった。

このころの台湾の俳人には台中商業の先生の阿川燕城がいた、かれはまた多くの台湾人俳人を養成した。台湾人俳人には王碧蕉(1915~1953)、頼天河、呉新栄(1907~1967)、郭水潭(1907~1995)などがいた。王の言うには「俳句が日本国民詩であると共に他民族に弘通する可能性を信じていたにせよ、俳句が広く普及するには季という大きな金しばりがあり、これが他民族に弘通する際の障害になっている」と。

1945年終戦と同時に台湾の知識人は一夜にし文盲となった。初めの一年はまだよかった、まだ日本語が使えたからだ、が二年目からは日本語は絶対禁止になった。今まで日本語で文芸に携わっていた人たちは筆を捨てるか外国語として中国語を習わねば生きるすべはないのだ。そして続く1946年に日本文禁止令、1947年の228大虐殺に続く白色テロと38年間続いた戒厳令(1949~1987)、あまたの台湾人知識人が闇の中に消えたが、一方、時代の渦のなかをうまく泳ぎ抜けて利権をつかんだ台湾人高官富豪もまた少なからずいた、これ世の常、特筆することもないが、この間台湾の日本語にも浮き沈みがあった。1950年代は日本語は絶対のタブーだった、1960年代の後半期に少しづつ緩和され日本留学も許されるようになった、しかし日本語書籍の持込にはまだ厳重なる規制があり、当局の検閲を通らなければならなかった、例えば英和辞典さえも一ページ一ページ検閲され、<人民共和国>や<蒙古共和国>などの英語単語は墨で塗りつぶされた、そして友人が贈り物として持ち帰ってくれた当時貴重なLPのレコードセット十二枚は丁寧に鋭利なナイフで傷物にされリプレーすることができなかった。1970年代に入ってようやく私立の大学で日本語学系が設立された、国立大学で最初の日本語学系が台湾大学に設立されたのは1994年のことであった。そのころには民間では日本ブームが沸き立ち、日本の映画、書籍、歌謡、レコードに若い人たちが飛びつき、「哈日族」と呼ばれ、大学で日本語や日本文学を専攻する学生の数がその他の外国語を凌駕するようになった、そして日本へ留学する学生も一途に増えた。この人たちが前述の台湾における日本短詩文学の研究結果に貢献したのである。

話は戻って、一夜にして文盲になった文芸作家や愛好家達のうちで、筆を捨てた人もあったが、また多くの人が筆を握り直して新しい言語に一から挑戦した、そして多くの人たちがその障害を克服したのだ、いわゆるの跨言語世代の人たちであった。はじめはたどたどしい華語だったが、日を重ねるにつれて華語を自由にこなす人の中には日本語と同じように抵触された台湾語を使う人もいた。詹冰、巫永福、陳千武、林亨泰、傅彩澄、蕭翔文らは俳句界における二刀流の使い手である。黄霊芝は日本語の俳句を主に、後に漢語俳句をも詠むが、彼が俳句を詠み始めたのは戦後であり戦後台湾唯一の俳句結社の主宰たる立場にあるゆえ、後で特筆する。

詹冰:ここで最初に提起したいのは詹冰である。詹冰本名は詹益川(1921~2004)、台湾苗栗県卓蘭の客家人である。中学生時代から詩が好きで、台中一中在学中にすでに俳句募集に応じて受賞している。父親の反対を押し切れず東京の明治薬専に学び薬剤師になったが、留学中に大いに詩作に励み、その間堀口大学にも文面で教えに預かった。1944年帰台後まもなく国籍転換に遭い、詩作に使い慣れた日本語から中国語に切り替えざるを得なかったが、よく困難を克服して、亡くなるまで華語で詩作を続け多くの児童詩や新詩を残した。ここで特記したいのは彼は漢字十字で漢語俳句を詠んだ、それを「十字詩」と名づけた。さすがは俳句の達人、俳句の定型、構成、詩境、詩情など、黄霊芝と同じようによく俳句の本質をわきまえているゆえ、漢字新詩型の「漢俳」を俳句と見なすようなことはなかったのだ。

朱実(瞿麦):「銀鈴会」は台中一中の学生である文学青年朱実、張彦勲、許世清らが1942年に発起した文芸団体で、1944卒業間際に会の名を「銀鈴会」ときめ、会員は台中一中の学生を中心に外部からの参加もあり、会誌「ふちくさ」を刊行し、詩、童謡、短歌や俳句創作などが発表された。言語は初めは日本語であったが1945年に時代が変わると中国語に変わったが、1949年4月「四六事件」で当局による手入れが入るとメンバーは散りじりばらばらになり、ある者は捕らえられ、果ては銃殺されるものもいた、またある者は島内や中国へと逃げのびた。当時台湾師範学院(後の師範大学)の三年生であった朱実は機敏で逸早く身の危険を悟り、中国に逃げきった一人で、後に中国で文学活動に従事し、俳句や漢俳の発展に貢献した。彼は中国では別の名を使っていた、瞿麥こと朱実である。周恩来が日本を訪れたとき翻訳をつとめたのも彼だった。「北京週報日本語版」 2008年6月20日に彼の紹介記事が載っている:「1992年4月、日本の伝統俳句協会の一行40数名が伊藤柏翠副会長の引率のもと、瞿麦氏を副団長兼講師として北京、西安、桂林を訪れた。観光後、上海の花園飯店で「中日友好漢俳・俳句交流会」と銘打った催しが行われた。これは、中日初の漢俳・俳句交流会であり、また同時に漢俳・俳句集『杜鵑声声(ホトトギス)』を出版して中日の漢俳・俳句交流に新たなページを切り開くものでもあった。(中略)2007年12月、中日国交正常化35周年の折りに瞿麦氏は上海の魯迅記念館で「中日詩歌交流展」を開催し、日本俳句協会の会員および上海駐在日本総領事館の文化領事、上海の漢俳・俳句愛好者など数百人が参加した。交流展終了後、これを機に「俳之橋詩社」が設立された。瞿麦氏が中日の漢俳・俳句交流の道を切り開いたことは、中日文化交流史上に輝かしい1ページを留めることだろう。」

http://japanese.beijingreview.com.cn/yzds/txt/2008-06/18/content_128412_2.htm 

朱実は1994年に一度台湾へ帰った来たことがある、そしてかっての「銀鈴會」の舊友たちと会った、旧友の蕭翔文は日文短歌同人誌「たんがら」に一文を残した。他はまた日本においても、早稻田大學、神戸學院大學、二松學舍大學、岐阜經濟大學中國文學客座教授の座にあった。彼はまさに激動の世界の渦の中に身を投じた、台湾の跨言語世代が世界俳句界に送りだした台湾、中国、日本三国にまたがる台湾出身の俳人なのだ。彼の俳句に:

半世紀時空を越えて秋思かな

長かりしタイムトンネル時計草かな

の句がある。

黄霊芝、台北俳句会:さて戦前、台湾の俳句や短歌の結社は日本人を主とするものであった。前述の銀鈴会は例外というべきであると共に、日本語の普及が目に見えてきた証拠でもある。が1945年戦後一夜にして文盲になった知識人や文芸人と学生は急速に中国語を習い始めた。

跨言語世代に居座りながら、いまだに日本語を使う人々を台湾の「日本語族」と研究者たちは呼んでいる。なかんずく、これら「日本語族」の一人である黄霊芝は1928年生れで本名黄天驥、日本人よりも造詣の深い日本語を駆使して俳句に馴染んでいるのである、そして1970年以来42年間、戦後唯一の組織ある日本語俳句結社「台北俳句会」の主宰でもあり、また2003年には東京の言叢社から戦後唯一の日本語の「台湾俳句歳時記」を刊行している。これらの功績により2003年には正岡子規国際俳句賞を受賞し、2006年には旭日小綬賞を受賞している。彼は俳句のみならず多くの日本語小説を書いている、2006年に岡崎郁子が一部を編集して『宋王之印』(慶友社)という書名で黄の日本名国江春菁で出版している、また2012年には下岡友加が『黄霊芝小説選』を編集して黄霊芝の名で広島の渓水社から出版している、また黄は彫刻にも秀でて、1962年にはフランスで開催された第二回パリ国際青年芸術展に彫刻『盲女』を出品し入選した。

黄氏の俳句について特記するところは正式に師匠を持っていない事で、すべて自習によるものであることである。自分史によると中学に入ったとき台湾人でありながらよくも日本人学校に入学してきたとして日本人のいじめに遭い、肋骨が折れ、血尿を出すほどの暴行に遭い、のち恐怖症になり一年休学し、中学三年で終戦を迎えた。彼は日本人にひどい仕打ちを受けながらも如何してこれほどまでに日本語に現を抜かしたか、自分は親日家でもなく、日本びいきでもない、只日本語が自分にとって最も使いやすいまた奥行きのある言葉だからと言っている。終戦後学歴を偽って大学に入学したと自分史で言っている、しかし間もなく肺を患って休学せざるを得なかった。その後喀血などを経験しながら、長い間肺結核の養生の途にあった。この間彼は集めた書籍を猛勉したのだ。かれは不幸のようでその実幸運児でもあった。かれは台南で一二を争う大資産家の末っ子で上には八人の兄弟姉妹がいた、終戦後二年で相次いで母と父を亡くしたが同時に残された膨大な資産と骨董玉石、くわうるに天賦の芸術の資才、彼は日本に送還される日本人の蔵書家の膨大なる蔵書(荷車二台、千冊近く)を一括して買収し得たのだ。想像するに彼は病床にあってこれら知的財産を全部精読、その真髄を吸収し、すべてを物にしたと私は解釈する(自分では乱読したと言っている)。玉石に関する能力も家蔵の骨董玉石からの実際経験と書籍からの知識によるものと思う。彼の小説にはよく金銀玉石が出てくる、また博物館の玉石の解説もされている。彼の芸術に関する天賦の才に加えるに、資産が彼の今日をあらしめたのだ。彼の博識多才は小説と句評の内容からも窺い知れる。彼の句作や小説の真髄内容を本当に了解するには、彼の一般に知られる出自の他に彼の生い立ち環境をよく知らなければいけない。私の知る限り彼の作品に関する一般の解釈はまだまだ足りないところがある。

阮氏の研究報告によれば、台北俳句会の創設は一九七〇年七月である。主宰の黄霊芝氏は「台北歌壇」(のち「台湾歌壇」に改名)のメンバーであり、歌壇の活動で一九七〇年の六月、台湾でのアジア・ペンクラブ会議に参加した川端康成、中河與一、五島茂、東早苗など、日本の文芸家と会った。台南への汽車の中で台湾にも俳句の会が欲しいという話が湧き、帰北のあと俳句の運座をした。これが台北俳句会の発足のはじめであるという。周知のように、当時の台湾は国民党政府の戒厳令の下で、結社どころか、日本語に関する資料の流通さえも禁止されていた。それにもかかわらず、黄氏は台湾で日本語の俳句会を創設した。当時の状況の厳しさは、俳句会の命名からも一端が伺える。メンバーは台北だけではなく、台中、台南にも多く、全島に及ぶのに、どうして「台北俳句会」と名乗ったのか。黄氏は言う:「実質的には会員が全島に跨り、『台湾俳句会』であるべきだったが、当時「台湾」の二字には反国思想の嫌疑が実しやかにかけられやすかったため、殊更にこれを避けたのであった」と。句会の進行方式は大体日本の結社に似ている。台北俳句会の特徴としては同人の平均年齢が高いことである。生粋の台湾人、台湾人と結婚した日本人、台湾に出張している日本人、日本在住の台湾人、日本に住む日本人、外国に住む人...、また官吏、商人、医師、教授、家庭主婦、会社員、教師、学生、リタイアーした人などさまざまで、主として会員の紹介で参加している。最盛期の一九九〇年前後には同人が百人近くいたという。特筆すべきは1969年に発足した「台北歌壇」から分立されたので最初は多くの歌壇の人が参加していた、歌人や俳人がお互いに掛け持っていたというのは日本のそれとは大いに趣を異にするものである。また当初は上述の跨言語世代が多くいた、頼天河、呉建堂、蕭翔文、巫永福らである、又親子二代での参加者もいる(陳秋蟾、陳昭仁)、これらの多くの人は、句集を刊行している。台北俳句会の句作は高齢者としての述懐や歴史、生活、そして言語の面に属する句など、人事や生活に関する句が多く、黄氏が句評でよく説く花鳥諷詠の客観写生句はそう多くはなかった。同人のイデオロギーは台湾特有の二大派双方ともいた、すなわち台湾意識を主とする台湾派と中国に傾く国民党派である、その点台北歌壇は台湾派が主なようで、国民党の甘い汁を吸った国民党派は追われて台北俳句会に来たという噂もある、黄氏は会で政治を論ずることを原則上禁止はしているが政治に関する句も見られる。『台北俳句集』は会員の句を各自20 句ずつ掲載して年度ごとに発行されている。いままでに刊行されたのは39集(2012.8)で、別に2010 年12 月『台北俳句会四十周年紀念集』が刊行されている。惜しむらくは『台北俳句集』と黄氏の創作のほとんどが自家版であるため日本ばかりでなく、台湾でも知るものもまれである。貴重な文献がみすみすなくなるのを見るにしのびず、2009年極力進言したが、取り巻きの古参高齢者に取り合って貰えず、40週年記年号だけは出版前日に無理にISBN登記をさせたが、その後の俳句集の刊行もまた元の木阿弥、40周年記念集は小生が自分でスキャンして個人のウエブに載せた。(2012年の末、若い人が幹事になったあとはネットでも作品が読めるようになったようだ)。別に1980 年に「台北春燈句会」(現・春燈台北句会)が創立され、10名前後の小さい句会ではあるが今日まで存続しており、メンバーの多くが台北俳句会の会員と重なっている。2011年の末から黄氏の健康が思わしくなくなり、会に出席するのも無理になり、2013年には会の世話役も高齢のため日本留学帰りの若いかたにバトンを引き渡した。若い方は新しい媒体のツールが使えるゆえ、句会の事務のやり取りも便利、迅速になったが、主人のいない家はやはり寂しい、春燈俳句会のほうもやはり同じ苦境に落ちている。なんとか在台、在日日本人の助けを借りて維持しようとあがいているもようだ。日本人が主になるようなことになったら、それは真の台湾俳句会ではなく日本語習得の場でしかなくなり、または日本人懇親のクラブのかたちになってしまい、そこに参加する台湾人は日本語練習のための参加であり、俳句会の意義をなさない。 

外国語俳句(HAIKU、漢語俳句)、ネット俳句:戦前、日本語短詩文芸の教養を獲得し、戦後の言語の推移に馴染めなかった台湾人は「日本語族(人)」となり、その一小部分が日本語短歌、俳句創作に籍を置くことになったのだが、はたしてこれらの人たちはほんとに詩才があったのか、または若き日に覚えた日本語にノスタルジアがあっただけなのか私にはわからない。思うに日本の俳句結社と同じではないかと。なぜ結社に高齢者や女性が多いのか、まだ日本でも結論がないようであるが台北俳句会でも同じ傾向がある、で結社の人たちは只暇をもてあましての言葉遊びで句会に参加しているのか?

黄霊芝や呉建堂(孤蓬万里、台湾万葉集)のふたりは確かに詩才ありで詩人の性格が普段の言行からはっきりと感じられ、誰も疑う人はない。呉建堂には私だけしか知らない逸話がある。彼は私の歳も医学もの先輩である。1982年のある日、突然院長室に私を訪ねてきた、彼は当時基隆市立病院の院長で私は台湾省省立台北病院の院長でした。彼とは面識がなかったが、同業なるゆえ院長室へお通ししたのだが、彼の発言にはびっくりさせられました、彼はいう:「あんたの今の院長職を僕に譲らないか」と、私はあっけとられて返す言葉も出ませんでした。まず省立と市立では格が違う、また公立なるゆえ院長職の任免は資格も上官の裁可もなくてはならない、政府の正式令状が必要なのだ、こんな常識外れの要求に答えられる筈はなかった。なんとかうまく話をして返したものの、彼のこのような単刀直入、ぶっきら棒な性格はよく詩人の性格を表わしているものと後日了解することができた、私のような凡人には真似さえできない言行なのだ、当時私は彼が歌人また剣道の達人であることを知る由もなかった。彼もその後台北病院ではないが地方の省立病院の院長に出世と歴任をした、尊敬すべき天賦の詩人である。

さて日本語の俳句でなければ何語で詠むか?当然台湾語か台湾の公用語である台湾中国語(台湾国語、日本の外国語大学では中国の普通語と区別している)となる。時の流れについて黄氏も漢語俳句を創作した、さすがは俳句の真骨頂を会得した黄氏であった、それゆえ漢語(台湾語、台湾国語)での創作も俳句の本質から外れてはいなかった、真の漢語俳句である、ただ惜しみらくは季語を必要としたことである、しかし黄氏のある季語には夏石氏のキーワードの匂いがある、それは世界俳句に通ずる道であり真のHAIKUというべきだと私は思う。黄氏は「湾俳」という造語を使っている、それは大まかに台湾という環境で創作された俳句の意味で、台湾文芸と台湾語文芸の違いと同じ意味である。黄氏は台湾で日本語文芸を多く創作したが、一部の人から台湾文芸ではないと貶められた経験があるゆえ漢語の台湾俳句(湾俳)を台湾で創作された漢語俳句の意味にしただけである。しかし私は台湾俳句(湾俳)をあくまでも純粋の台湾語で詠まれた俳句と解釈したい、でなければ今世界で詠まれているHAIKUに添わないからだ。漢語俳句と湾俳の詳細については『世界俳句』第7号pp101-113をご参考ください。黄氏は1993年、知人で時の台北県長尤清氏に働きかけて県の文化センターで漢語俳句教室を設立し、その後漢語による台湾俳句会を結成し、一人でも天才がいる事を望んだのですが、どうも当てが外れたようである。黄氏のほかにも漢語俳句に立ち向かった詩人もいました、彼らは国際的にも知られた詩人である、それ故詩才、詩情については言うことはありません、はっきりと俳句と銘うって出された俳句集もあります、がどうも俳句と言いがたいようです。その原因がはっきりしません、私なりに想定すると多分俳句の本質に関する解釈や説明がたりなかったのが原因の一つであるが、日本国内での俳句の本質に関する論説の不定性にも由来すると考えます。俳句とはと聞くと、必ず先ず有季定型を持ち出す、そしてそれは広い俳句の意味での一つの型であるとは言わないで、それが一切のように言われる、日本語を知らない外国人は途惑ってしまい、挙句の果ては漢俳という俳句の俳の字の付いた俳句でない新しい漢詩の一型まで生み出し喜ばれています、まことに悲しい喜びですが。

漢俳が俳句でないことは黄氏も詹氏もはっきり言い切っている、そして前述の朱実こと瞿麦氏もそれに触れている。で私の漢語俳句に関する考えは別に載せてありますので【呉昭新:《漢語/漢字俳句》―漢俳、湾俳、粵俳、……とは?-『世界俳句』-2011 No:7、pp:101-113; 世界俳句協会、日本 】までお越しください。

黄氏のほかにも二十世紀末、台湾の新聞紙の文芸欄で一時俳句熱がありましたが、長続きはしませんでした、原因は俳句に関する理解が不足だったと私は解釈します、そのまたの原因を正せば日本本国の俳句に関する意味付けの不定性によるものと思います。

ネットをサーフインしますと最近若い人たちが中国の漢俳の真似をして漢俳を俳句と思って一生懸命頑張っているようです。漢俳を漢俳、漢詩の一新型、として詠むのはよい事ですが漢俳を俳句と間違ってもらっては困ります。でもこの二三年「漢俳は蘇俳よりも俳句に似ていない」と言う書き込みを見つけました、このグループの人たちは他の人たちよりもある程度俳句の本質に近づいているようです(蘇俳とは旧ソ連の俳句のことで、いまのロシア俳句にあたります)。私が『《台湾俳句》之旅』の一文をネットに載せてからはや三年半が過ぎました、ネット上の延べビジター人数は約3000人に上ります、けっして多い数ではありませんが、台湾には俳句に多少興味を持つ人もいるということです、ほかに俳句に関する文章および湾俳、華俳の自詠句のページへのビジターも少なくありません。また明らかに私のウェッブサイトに呼応して客家語で詠まれた客俳のブログも出てきました、惜しむらくはまだ漢俳を漢語俳句の典型と思い違いをしているようですが。黄氏の漢語俳句の台湾俳句会にもっと若い人が集まるのを願っていますが、今のところ黄氏の健康も関わっていますので望みは薄いようです。

台湾俳句の未来:台湾の俳句会は高齢者が多かったため、ネットでの新しい俳句の方向を知るのにハンデイキャップがありました、でも去年あたりからタブレットPCが出回り、高齢者でも使いやすくなったゆえ、使用者も増えてきたようです、ネット消息の遅れによるハンデイもそのうちに追々無くなるでしょう。

最後に望むことは台湾では、黄氏が築きあげた台湾の俳句会を若い人たちが受け継いで真の漢語俳句および俳句の本質に則った俳句(HAIKU)を詠むことにあります、有季定型、花鳥諷詠、写生の伝統俳句は俳句の一つではあるが全部ではありません、これをわきまえる事が若い台湾の俳人に課せられた務めであります。



角帽の写真を飾り二二八   許秀梧



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主な参考文献:

1) 沈美雪:『相思樹』小考― 台湾最初の俳誌をめぐって ― (日本台湾学会報第十一号(2009.5) (全14ページ)日本台湾学会報 第十一号(2009.5)(日本語)

2)阮文雅: 異国人の日本語文学――台北俳句会の一考察;植民地文化学会 2008年7月13日(日本語)

3)蘇世邦:台湾俳句の季題について-「椰子」の句を例として(南台科技大學/應用日語系/97/碩士/097STUT0079004)2009(全141ページ)(華語)

4)沈美雪:「漢字文化圏における俳句受容の現状と問題点―台湾俳壇の歴史を中心に―」 2006 年6 月3 日(『日本台湾学会第八回学術大会報告者論文集』所収)(日本語)

5)沈美雪:「明治期の台湾俳壇について――俳句受容の始まり――」

『2007 年度日本語文・日語教育国際学術研討会会議手冊』2007 年12         月銘傳大学応用日語学系・台湾日本語文学会・台湾日語教育学会 所収。(日本語)

6)沈美雪:「台湾に於ける俳句受容の始まり――俳句流入の十年間をめぐって」 『明道日本語教育』第2 期 2008 年7 月 所収。

7)磯田 一雄: 戦後台湾における日本語俳句の進展と日本の俳句結社

    ―『七彩』・『春燈』・『燕巣』とのかかわりを中心に―東アジア研究(大阪経済法科大学アジア研究所)(日本語);第57 号, 2012 年, 1- 14 ページ(日本語)

8)磯田一雄:黄霊芝俳句観の展開過程 -「台湾俳句」に向かうものと超えるもの-(天理台湾学会年報 第17号(日本語)(2008.6) 

9)磯田一雄:皇民化期台湾の日本語短詩文芸と戦後の再生ー台湾的アイデンテイテイの表現を中心にー(天理台湾学会年報 第19号(日本語)     (2010.9) 

10)朱実:中国における俳句と漢俳;『日本語学』-vol.14:53-62(1995)-明治書院-日本;(日本語)

11)夏石番矢:現代俳句のキーワード;『日本語学』-vol.14:25-31(1995)-明治書院-日本;(日本語)

12)呉昭新:《漢語/漢字俳句》―漢俳、湾俳、粵俳、……とは?-『世界俳句』-2011 No:7、pp:101-113; 世界俳句協会、日本;(日本語)

13)福永法弘 旧領の日本語俳句(平成22年10月)(日本語)                                             

http://www.geocities.jp/koyakkokoyakko/kyuuryou-nihonngo-haiku.html 

14)劉淑貞『黄霊芝文学之研究―以《台湾俳句歳時記》為中心』中国文化大学日本語文学研究所碩士論文、2006 年、124 頁).(華語)

15)阮文雅:中国語俳句における俳句記号の移植と変形 (華語)南台應用日語學報 第7號 2007.11

16)李秋蓉:詹冰及其兒童詩研究:國立雲林科技大學漢學資料研究所碩士論文;(2003)(華語)

 

2013年6月7日金曜日

俳句(HAIKU)-153

汗流れ目がしみ開かぬ涙顔

坊様に嫁はんくると風薫る

見る皮膚に思いも走り春惜しむ

大正池鴛鴦つがい春惜しむ

萎みゆく乳房手に触れ春惜しむ
        (呉昭新;オーボー慎吾)

俳句(HAIKU)-152

落ち葉散る靜閑の森終の始まり

飯のなく炭火を焚いて一家逝く

風鈴の落ちて音止む昼下がり
               (呉昭新;オーボー慎吾)

俳句(HAIKU)-151

蛍舞い闇はよいよい来い来いと

産声やなーがい長い旅ですと

汗にじむ思いの肌に燃えるキス

       (呉昭新;オーボー慎吾)