<<俳句海を渡って短歌になる>>
しばらくご無沙汰していた国際俳句協会(HIA)の<世界の「俳句・ハイク」事情>の<中国>部分を覗いてみました。ご無沙汰してもう6、7年になる。ご無沙汰したのもそれなりの理由がありました。漢詩また俳人でもある大先生が短歌本質の短詩を俳句としてご丁寧に説いて外国人に紹介していたからです、それも一回だけでなく6回に渡って滔々と述べていました。
覗いてみてがっかりしました。相変わらずそのままだったから。一歩退いて自分が間違っているのかもと考えてみましたがそうでもなさそうだ。
俳句と短歌は日本では古来からはっきり区別されていて同人協会の経営も相拘わることなく行われている。内容の量と質もはっきり違う。575と57577と情報量も違うし、瞬間感動と抒情詩と質も違う、叙情は俳句でも出来ないことはないが完全なる叙情をなすのは一般に難しい。もともと575と57577は文字数の違いではなく17音と31音の違いなのだ、だが各国の言葉は一語一語の音数が違う、日本語はポリシラブルであるが華語はモノシラブルなので日本語のポリシラブルの音数をモノシラブルの華語にそのまま当てはめると情報量が平均の倍以上になってしまい簡単に抒情詩を詠むことが出来るようになり、575音で十分日本の短歌の情報量相応の短詩が詠めるようになり、自ずから俳句を詠んだつもりで短歌の情報量と本質になり俳句の本質とは違う短詩になってしまっています。
もともと中国では1919年五四中國文化改革運動以降、縛りの多い漢詩を詠む方が少なくなり、多くの方が口語の現代詩を詠むようになり、575の漢俳は丁度手頃の短詩型の定型現代詩になりとても歓迎されています、だからと言ってそれが漢語の俳句だというのは一寸おもんぱかられます。
日本の俳句が世界に進出してから100年以上になります、この世界最短の特殊な短詩型が長い間荒波のなかをさ迷いた後、世界から受け入れられその特質がようやく理解されるようになった今日、ただ俳句は <最短の詩> だけで片付けるのはどうかと思います、と言うのは少なくない各国の現代詩の詠み手が短い現代詩を皆俳句と思い込んでしまうからです。
日本では同じ短詩型の短歌と俳句(短歌の発句)は1000年以上も平行線を保ち進んできました、また進んでいます、いまさら一つに叩き直すというのは?
小生は日本語、華語、英語だけしか分かりませんが英語の俳句も華語の俳句もようやく日本語俳句の本質に沿った俳句がたくさん詠まれるようになりました。自由律俳句は定型の俳句と平行線を保ち同行するものであるがやはり俳句としての本質は保つべきであり、ながったらしくなてはいけません。そしてポピュリズム的な花鳥諷詠や季語は日本語俳句特有の形の一つとして日本人に愛されるのは理解出きると共に重んじられますが、それだけが俳句であると言われるのは一寸困りますと世界中から言われます故、胸に収めてくださるようお願いいたしたい次第です。
@参考文献:
Chiau-Shin NGO (呉昭新):<俳句とは、定型漢訳(台湾語、華語)日本歴代俳句(日本語版)>-電子書-ISBN:9789574365999-2019-4,台北、台湾。PP:171
Photo: 1986日月潭
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