2017-06-04
今朝の新聞(朝日)を開いたら<(書評)『ポピュリズムとは何か』 ヤン=ヴェルナー・ミュラー〈著〉>の表題が目に入った。昨日僕がFBに載せた落書き<今12時正午です>の中で取り上げた<伝統俳句は俳句界のポピュリズム>の補充説明のようだ、確かな定義はまだないが当たらずとも遠からず、日本の俳人よ日本の俳句のために(戦前ならばお国の為に)。http://digital.asahi.com/articles/DA3S12971552.html
2017-06-02
今12時正午です、が空はどんより曇って雨が降っています。室内は夜も同然電灯なしでは仕事ができません、心も暗く重たい日です。ふとコンピューターを開けるとFBに2年前の投稿がポックリ出てきました、芭蕉の言う<月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也>でもないが、その過客がまた通り過ぎようとしているのです。ざっと目を通してみると今と2年前はあまりか全然変わっていないようです。だが又新しい発見をしました、俳句の大先生が<三行詩>なればみな俳句だというのです、小生の驚きようは言葉に尽くせません、もともとの<俳句は日本人にしか詠めない>と言う今までの困惑に比べて今度の俳句の定義の広さには面食らってしまいました、両極端、これが日本発の俳句の運命なのか?否!俳句の本質真髄は瞬間の感動を出来ないまでに縮めた言葉で表現する感動、で少なくとも一般の所謂の叙情詩ではなく、そして最短の詩であることそれだけ、でまた韻文であるが故に出来るだけ575に従う以外の縛りは個人の好みで、とるもとらないも人の好き好き、季語に至っては数千年来の日本人の生活習慣に由来するもの、外国人はもとより日本人でも取捨選択出来るものなり。初心者で外国人の筆者のたわ言かもしれませんが、じっくり考えられないことも無きにしも非ず、殊にこの頃政治ニュースで流行っている<ポピュリズム>に思いを馳せるときふと所謂の伝統俳句の三縛りは俳句のポピュリズムではないかと思うことも有ります。最後に俳句は日本発の短詩、今(>100年)世界中が大事にしている。(一外国人の私が口をはさむところではありませんが, 逆さにとれば日本人が口に出しにくいことを外国人だからこそいえるのではないでしょうか。このごろ英語で詠まれている<haiku>を読むと少なからずの人がちゃんとハッキリHaiku とTanka と銘打って詠み分けているのを見ます。日本の方々後れを取ってはなりません。) http://oobooshingo.blogspot.tw/2012/07/blog-post.html (外国人が考える「HAIKU」と「俳句」の未来 )
2015-8-京都
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