台湾の俳句史(1895~2013)(全文) 呉昭新(Chiau-Shin NGO)
俳句は「俳句」、「HAIKU」として今や世界中のあらゆる言葉を使う人々に受け入れられている。だが俳句の源泉国である日本ではどうかと言うと、まだまだ大多数の俳句フアンは、俳句は日本語で定型有季、花鳥諷詠でなくてはならないと思い込んでいる、または強引に主張する人さえいる。
「HAIKU」は日本語以外の言葉(外国語)で詠まれる俳句で、漢字だけで詠まれる「漢語俳句」をも含み各言語で普及しているが、その定則には一定の規制はなく、ただ一番短い三行詩だという理解で受けいれられている。外国語といえば一応アクセントというのがある、それでアクセントを気にするものもいるが、相手にしない者もいる。季節にいたっては南半球と北半球ではまったく反対であり、国や地域によっても大いに違っているし、季節がない地域もあるので、共通の季語は不要と考える人など、さまざまである。また季語を入れても季感をなさず、季語本来の意味をなくしているので、取らぬ人も多けれど、他方日本の伝統派に倣ってなんとか季語を入れる人もいる、が季感がない。季語ではなく生活、社会に関するキーワードを使う人もいる。いずれにせよ、「Haiku」は短詩の一ジャンルとして世界的な広がりを見せている。米英を中心に英語俳句があり、アジアでは諸言語で俳句が詠まれている、とくに漢語系諸国では漢俳として,中国で持てはやされているが、後述するように、「漢俳」は一種の短詩ではあるが絶対に俳句ではない。(世界俳句第7巻、2011、参考)。
明治の日本で子規が客観写生を提唱したその時期に、西欧では、日本から伝わった芭蕉や一茶の発句が、西欧諸国語に翻訳された。俳句の翻訳は詩としての詩情内容を損なわず、相当的確に翻訳されるのが可能であることが証明された、ただ日本語特有の掛詞、文化的記憶を除いてのことである。それは俳句が短く、難しい言い回しがないからである、そしてなぜ俳句が翻訳可能であったかというと、俳句の詩的本質が、五七五の韻律に依存するものではなく、日本語以外では五七五の定型は無視され、意味のない季語は外されたからである。そして逆に、西欧では詩に不可欠と考えられていた押韻が、詩の本質にとっては必ずしも重要な要素ではないことが、各国語に翻訳された俳句によって明らかにされた。欧州理事会のヘルマン・ヴァンロンプイ常任議長は、句集『Haiku』まで出している。そして議長は『俳句は翻訳可能だと話している』。俳句は押韻なき詩であるがゆえ、俳句はどのような言語によっても、作ることができる、そして作られたのである。一般に俳句には韻律がないと言うが、日本語俳句には575の律があり、外国語では押韻しようと思えば出来ないことでもない、口ずさんで、または読んで佶屈聱牙でなく、耳に楽しければ、鮮明なる外在韻律がなくても、俳句には詩想のうえで感じられる内在律があるのである。
これらはさておき、この小文においては、広い意味の俳句(HAIKU)の立場から台湾の俳句事情または俳句史について述べさせていただきます。
さて、台湾での俳句事情はどうかと言うと、その他の国とは大分違っている。ブラジルは日本から言えば遠くて近い国、そして台湾は近くて遠い国といわれている、その理由はともかくとして、この二つの国は日本語事情については似ているといわれている(ハワイでも同じことが言える)。というのはこの二つの国の人たちは戦前までは日本語が他の国よりも日常生活に多く使われていたからである、でも使う人達そのものは違っていた。ブラジルではブラジルに移民した元日本人であり、一方台湾人は日本に統治されていた異民族であるがゆえ、前者においては戦前戦後において日本語の使用の原点には変わりはなかった(三世になると日本語を話す者がすくなくなった)、が台湾においては、戦後日本語は禁止されたばかりでなく、敵国語として不倶戴天の仇の立場におかれた、それ故戦後における日本語の使用事情はまったく違っていた、日本語を慣用する台湾人は一夜にして文盲になったのだ。
台湾が日本の統治下になったのは1895年(明治28年)、子規が客観写生を説き「ほととぎす」を創刊したのが1897年(明治30年)、そして台湾での日本語教育は伊澤修二らによってすぐ始められた。最初は六名の教師が原住民部族の襲撃によって惨死するなどの悲劇があったが、漸次小学校、中学校、高等学校、師範学校、各種専門学校、帝国大学の設立があり、爾来終戦当時にいたるまで50年の間に日本語教育を受けた台湾人の数は日に増し、教育機関数の統計記録から大よその推定ができる。1900年頃の台湾総人口数は約300万人、終戦二年前の1943 (昭和18年)年の統計では、約600万の人口で、内日本人は約60万人である。そして台湾人児童の就学率(義務教育)は男子93%、女子85%、1920年代(大正後期)の33%に比較して大幅の躍進が見られる。1944年4月において、国民学校1,099校、児童数932,525人(台湾人、867,748人)、中等教育での中学校は22校、生徒数15,172人(台湾人7,881人)、高等女学校22校、生徒数13,270人(台湾人4,853人)である、それに各種実業学校は計27校、生徒数14,626人(台湾人9,194人)で、高等学校以上の学生数は含まれていない。このほか、島内での進学に阻まれた多くの台湾人学生は、家況が許す限り、多くの者が、自由に 入学を制限されていない本土の学校へ進学した。つまるところ、終戦当時、1910以後出生した人たちはみな日本語をよくする人たちであるという事実である(一部の者の台湾訛りを問わなければ)。
さて私が言いたいのは、終戦をメルクマールとしてみる時、台湾人で中学までの教育を受けた人たちは俳句を詠もうと思えば日本人と同じ能力を持っていた、それゆえその時点、特にそれ以前35年間における台湾の俳句事情は在台日本人と台湾人を問わず、日本本土におけるのと同じである。ということは日本で俳句がどういう人たち、社会層、年齢層に受け入れられているか、また俳句結社、俳誌や有季定型、自由律,無季非定型などの絡みについては、台湾でも日本本土と同じであると言うことである、たとえば小学校や中学で教わる俳句、女性や高齢者に俳句を詠む方が多いことなど。が、事実は少しズレがあった、台湾人日本語習得人口と俳句趣味人口は比例しなかった。俳句人口は、藤田芳仲「台湾俳壇展望」(昭和7 年9 月『台湾時報』154 号 42 頁)に拠ると、昭和7年頃の台湾の俳句人口は約6700 人であったが、その内の4500人は「ゆうかり」派で、後の2200 人は他の派の俳人であったと言う。
台湾での日本統治時代における俳句事情に関しては近10年来、台湾または日本で日本文学を専攻された人たちや日本で台湾の日本語文学に興味を寄せた人たちによってすでに多くの整理研究がある (阮文雅、沈美雪、蘇世邦、周華斌)ほか、日本人の島田謹二の「正岡子規と渡辺香墨」、「続香墨論」また阿部誠文、磯田一雄らによっても紹介されている。ただ外国語俳句「HAIKU」については、まだである。
この小文においては、(一)結社、俳誌、(二)季題、季語、歳時記、(三)日本語俳句、外国語俳句(HAIKU、漢語俳句)、ネット俳句について項を分けて年代順に述べさせていただきます、また日本統治時代の俳句事情については上掲諸氏の研究論文から引用させてもらい、戦後における俳句およびHAIKUについて、そして台湾人の跨言語世代の様相については、私見を述べさせていただくつもりであります。
(一)結社と俳誌:
1.
『相思樹』:日本派
俳誌『相思樹』は台湾最初の俳誌である(明治37.5~43.2)、その後50年の間に台湾で発行された俳誌は20種ちかくあり、よく話題にのぼるのは『ゆうかり』で1921年から終戦時(1945年)まで続いた。
台湾は明治28年(1895)に清国より日本に割譲された。沈美雪氏によると台湾における俳句受容は、旧派も新派もほぼ同時期に並行して流入してきたとされている。初期の台湾俳壇は日本人のみで、『台湾日日新報』の俳句欄「日々俳壇」の選者を勤めた高橋窓雨などの旧派宗匠がリードしていたが、子規の高弟である渡辺香墨の台湾赴任により、新派俳人は指導者を得て、台湾に移住した日本人の間には、子規の俳句革新に同調する俳人もかなり増え、『ホトトギス』が創刊されると子規の俳句革新の主張を賛同する台湾在住俳人が、台湾の風物を読み込んだ句を『ホトトギス』に発表するようになった。 『ホトトギス』創刊(1897)の翌年にはすでに台湾在住の俳人の投句も見られた。 窓雨は明治30年(1897)6月に渡台し、明治31年(1898)に『台湾日日新報』が発刊されて以来、同紙の俳句欄の選句をし、多くの同士を募って初期の台湾俳壇における一大勢力を作った。
明治35年(1902)4月には村上玉吉(神洲)を主幹とした文芸雑誌『台湾文芸』が刊行された。『台湾文芸』は俳句専門誌ではないが、俳句を主とし、短歌小品その他を掲げていた、しかし長くは続かず、同年の9月に第5号をもって発刊停止となった。
『相思樹』はホトトギス系の結社「竹風吟壇」の同人を主体として明治37年(1904)5月15日に発行された俳誌で、創刊号は菊版16頁の小冊子であった。しかし沈氏によれば、『相思樹』の史的意義は多大なものであるにも関わらず、それについての論説は、島田謹二の「正岡子規と渡辺香墨」、「続香墨論」、阿部誠文の「台湾俳壇史」(俳誌『燕巣』にて1999年より連載中)に言及があるのみである。『相思樹』創刊当初の主筆を務めた渡辺香墨は初期の台湾俳壇の基礎を作った一人であり、彼の台湾での文学活動は島田謹二の上述の論文で詳細に論述されている。また阿部誠文の「台湾俳壇史」は『ホトトギス』に発表された台湾俳人の作品を取り上げ、句評を加えたものである。
『相思樹』の誌名の相思樹はその閑雅な姿から台湾では歩道の並木あるいは鑑賞として至る所に植栽され、南国的情趣の溢れる植物として台湾の俳人に愛されている。『相思樹』の選者だった香墨・鳴球・李坪の3人は『相思樹』を通して明治期台湾俳句界の基盤を作った先人である。また作品の面において台湾俳句には異文化の交流と融合が見られ、内地趣味ではなく台湾特有の季題趣味を研鑽しはじめたのも『相思樹』の俳人たちであり、その集大成が明治43年(1910)に出版された李坪の『台湾歳時記』である。
『相思樹』編集者の服部烏亭の「寄空鳥《上》」によると、創刊の発起者は堀尾空鳥、田内芋作、加藤申衣、蝸居(本名不詳)、服部烏亭の五人である。その他竹風吟壇時代からの古参には、みの作、落水、稲城、天涯(法経堂)、李坪(本名小林里平)があり、『相思樹』発刊以降は山田不耳、藤井烏犍、庄司瓦全などが加わった。有力同人は上記の他に基隆の吉川五平太6や、金瓜石の渡辺風山堂などがいた。『相思樹』はその主筆と傾向により、前期(渡辺香墨主筆時代)と後期(岩田鳴球7主筆時代)に大別できる。
前期『相思樹』の主筆の渡辺香墨は小林李坪と共に当季雑詠の選者として発刊当初の『相思樹』を支えた。香墨は明治32年(1899)12月に台湾総督府法院検察官になり、翌年1月に台湾に赴任し、明治39年(1906)2月に離台するまで台湾で6年余りを過ごした。小林李坪は埼玉の出身で、本名は里平、李坪は本名に因んだ俳号である、明治33 年頃渡台し、法院嘱託となり台湾固有の習俗を調査する「台湾慣習調査会」に所属し、また総督府管轄の台北地方法院の書記官も兼任していた。「南蛮会9」、「竹風吟壇」に参加し、明治40年(1907)に緑珊瑚会を創立し、明治末期まで俳壇をリードした。著書に『台湾年表』(伊能嘉矩との共著、琳瑯書屋、明治35年出版)、『台湾歳時記』(政教社、明治43年出版)などがある。二人は共に正岡子規の教えを受けた日本派の俳人であり、渡台後は多くの俳人を育て、初期の台湾俳壇の発展に大きく貢献した。
島田謹二は、『相思樹』同人が創刊初期において窓雨一派を主とする「日々俳壇」と正面衝突し、激烈な筆戦を交わしたと記している。
香墨は明治34年(1901)1月に台中、明治37年(1904)3月に台南に転勤し、その度に指導者として句会に臨み、地方句会の発展に尽力した。しかし地方句会の多くは香墨の指導により新風に目を向けるようになったものの、指導者を失ってからは再び旧派の勢力に支配されるようになった。香墨が台湾を離れ、李坪らが『相思樹』を抜けると、鳴球は実質的に主導権を握るようになった。後期の『相思樹』は投稿や投句の量において不振に陥り、存続が問題となった。その兆しは第5巻の改巻号からすでに見え始め、改巻号であるのに、全巻の約半分が主幹の鳴球の「琥珀帖」という7年前の日記で頁数を埋め合わせていた。『相思樹』の不振による廃刊の兆しが濃厚になってきた中で、有力メンバーで且つ『相思樹』の経済的後援者の一人でもある実業家の吉川五平太が「相思樹改善案」と題する一通の手紙を鳴球に寄越した。これは台湾最初の俳誌である『相思樹』の衰微を「非常の痛恨事」と感じた同人吉川五平太が、何とかして『相思樹』を再生させようとした提案である。雑誌編集の難点は「主幹者の多忙なる境遇」「会員一同不熱心」「会計の困難」三点にあると分析し、それぞれ対応策が考え出された。「会員一同不熱心」は、おそらく『相思樹』の存続の危機にある一番の根底的な原因である。当時は新傾向俳句を標榜する緑珊瑚会が『台湾日日新報』を拠所にし、多くの俳人の支持を得ていた。緑珊瑚会勢力の勃興と対照的に『相思樹』はますます下降気味になっていったのである。「相思樹改善案」を進言した二年後の明治44年(1911)9月に、五平太は南部旅行中濁水渓架橋通過の際橋より墜落し、42歳の生涯を閉じた。大正5年(1916)8月刊行された五平太記念号が『相思樹』の終刊号となった。
一方明治40年時代に河東碧梧桐が提唱した新傾向俳句が全国を席巻する勢いを見せた中、台湾でも河東碧梧桐の来台を機に、李坪や空鳥らによって発起された緑珊瑚会が碧派の句会に転じ、碧梧桐の唱導する新傾向の俳句をめざして、固定した季題趣味から脱しようと模索し努力した。それに対して、『相思樹』同人は新傾向に興味を示しつつも、ホトトギス系の俳誌を標榜し、旧派俳人を大量に受け入れた緑珊瑚会の「来る者拒まず」の方針を痛烈に批判した。中心人物の鳴球は、一面においてはその傲岸不遜な態度のため多くの俳人の反感を買ったが、三井物産会社の台湾支店長として在台10年、台南、彰化、台中など中南部に住居を構える度に当地の句会を指導し、地方俳壇の発展に尽力した功績もある。
後期『相思樹』時代は作句の面において、樵山が編集を勤めた時期に雑詠・課題詠のほかに、「一題百句吟」や「互評俳句」などの募集も試みられた。一題百吟は一つの題に対して百句を出句することであるが、選者が内地著名俳人の小沢碧童ということもあり、当時は少数の熱心者が作句していたが、その後は何の音沙汰もなくなった。互評俳句欄は「雁来紅」と言い、樵山企画の俳句コーナーとして比較的人気を博していたものの、第6巻に入ってから投稿者は激減した。後期『相思樹』は編者が度々変わり、発刊も不定期になっていたが、地方句会にはいくつか特筆すべき動きがあった。その中でも北部の基隆に在住の俳人を中心に開始された「台湾五句集」の集会と、中南部の俳人が主になって発起した「涼樹傘」句会が同人を引率する力となっていた。
「台湾五句集」は『相思樹』系俳人の吉川五平太、山本風雨楼(常之助)など基隆在住の俳人によって発起された集まりであり、ほかに緑珊瑚系の青甫などの有力俳人がいた。明治41年(1908)頃、当地に「二二吟壇」が結成された。この二二吟壇は緑珊瑚会の俳人が主体となり、明治43年(1910)2月号の『ホトトギス』にもこの句会の記録が載っている。風雨楼のような、竹風吟壇と緑珊瑚の仲直りを願う竹風吟壇の同人も参加していた。その二二吟壇の記録が、翌月である明治四十三年二月号に載っている。そこには、今までのメンバーは一人も参加せず、台湾俳壇で初めてみえる青甫と風雨楼の名がみえるだけである。『緑珊瑚』に二二吟壇の句会報を書いたのは「青甫」であることから、彼が句会の中心人物であることが分かり、他に露村、八洲、硯水、周陽などがいる。風雨楼は明治42年(1909)12月には既に逝去しており、明治43年(1910)1月号の『ホトトギス』句会報に見える台湾五句集が台湾五句集最後の記録となったのは、風雨楼の死により台湾五句集が解散もしくは中止になったからと見て良かろう。
各地の俳人が活発に投稿したこの句会の詠句は『相思樹』に多く掲載され、投句者の作句力の高さが目を引く。上記2人の他に、貫城、北攝、迂骨、迂世丸、鐘堂、宙洋、八面峰、鎮西郎、塩村、霞堤、烏亭、枕流、芋作なども熱心に投句していた。「台湾五句集」で選出された句は『ホトトギス』にも紹介され、明治後期の台湾におけるホトトギス派の勢力を示す存在となった。
阿部誠文の「台湾俳壇史」は、2回連続で『ホトトギス』に採録された「台湾五句集」に触れ、迂世丸の「獗曳の出て行く跡に泣く子かな」と貫城の「舞猿や蜜柑をかくす陣羽織」二句を紹介した。 『ホトトギス』42年3月号の最初の記録は、「台湾五句集」第6回の集会で詠まれた作品であり、題は「猿引」で出句者21名、選者18名である。 沈氏は文献資料を調べて、こまごまと明治時代の台湾俳壇の実情を記述している。
大正時代の台湾俳壇は、諏訪素濤を中心とした河東碧梧桐系の「新傾向」俳句が一世を風靡しており、『熱』や『麗島』といった雑誌が発刊されていた。しかし、大正9年には『うしほ』が、翌大正10 年には、『ゆうかり』 が創刊され、「ホトトギス」派が全盛を迎える昭和初期の台湾俳壇を準備した。昭和初期の台湾俳壇は、「ホトトギス」派である、山本孕江の主宰する「ゆうかり」派全盛の時代であった。
台湾で俳句結社雑誌を出して名を残したのは日本人山本孕江の『ゆうかり』でそのほかに最近諏訪素濤の『熱吟社』が注目されている(阮文雅、沈美雪、楊雅恵、周華斌)。少し日本本国と違うのは台湾で俳句を詠む方の多くは同時に短歌や川柳も詠むことであり、戦前戦後を通じて同様であると。
2.
『ゆうかり』:ホトトギス派
『ゆうかり』は昭和の台湾俳壇を代表する俳誌でまた最も長く続いた(大正10.12~昭和20.4)、主宰は山本孕江。俳句結社「ゆうかり」の前身は、大正7 年1 月に幸田青緑によって創設された「魁吟社」であった。その翌年の大正8 年春、綾部王春を中心に「魁吟社」の会員が独立して「ホトトギス」系の「南吟社」を結成した。会員には三上孤羊(後の惜字塔)や大久保黙山があり、高雄の「哨船頭吟社」の互選回覧紙に倣って回覧紙『南』を作り回覧したが、大正10 年5 月に「哨船頭吟社」の山本孕江が、高雄税関から台北の中央研究院に転勤したのを機に、「ゆうかり」社が結成され、孕江を編集者として俳誌『ゆうかり』が創刊されることとなる。同年12 月には山本岬人が入会し、会はますます盛んになって行った。当初の雑詠選者は前年渡台した「ホトトギス」の佐藤夜半であった。大正12 年9 月からは、東京の渡辺水巴が雑詠選者となったが、水巴は選が遅れがちであったため、同年11月以降は村上鬼城が雑詠選者となる。その後、「ゆうかり」社創立10 周年にあたる、昭和6 年10 月からは、孕江が雑詠選者となり、昭和4 年5 月からは、阿波野青畝が「ゆうかり句帖」の選者を務めた。
山本孕江(1893~1947)は、高知県生まれ。本名は昇。台湾におけるホトトギス派の中心人物である。編著に『ゆうかり俳句集』(昭和10 年10 月 ゆうかり社)。句集『山本孕江句集』(昭和17 年11 月 同句集刊行会)がある。
(二)季題、季語、虚子の「熱帯季題論」と台湾の歳時記:
1. 季題、季語:
「椰子」と「水牛」は台湾季語を代表しまた「熱帯季題」でもある
水牛の角にたばしる霰哉 (明治37年4月) 烏 犍
「水牛」は昭和期においては「椰子」に次ぐ俳材として台湾俳句によく詠まれましたが、明治期にはまだ馴染みのない素材であった。台湾の季題を集めた最初の歳時記である小林李坪の『台湾歳時記』には水牛について次のように述べている。「水牛は黄牛に比して怜悧で、且つ奮怒する時は危險が多い、然かし又愛情は濃厚であり、牧童は犬の樣水牛を愛するのである。水牛は平素見馴れぬものを見た時は、奇異の聲を放つて鳴き、或は之を襲撃することもある、又頗る水を好んで、陽熱酷しい時には、常に泥中に転んで、全體に泥を塗り、或は水に没して、頭若くは鼻のみを水上に出し、數時間に亘ることがある、之れ水牛の名ある所以である。」 霰が水牛の角に激しく飛び散る
水牛の鋭い角を素材とする句は後に頻出するようになったが、水牛の角に着目したのは烏犍の句が初めてであろう。水牛は普段は大人しいが、危険を感じると鋭い角を前に突き出して相手を威嚇する習性があるので、当時内地からの移住者はこの水牛を興味深く観察する一方、一種の恐怖を覚えていた。 『ホトトギス』に収録された香墨の「一週記事」にも水牛を見かけると思わず道を空けてしまうという作者の経験談が述べられている。
蘇世邦氏は俳誌『ゆうかり』所載の「椰子」の句を分析し、台湾俳句に於ける「椰子」の「本意」を考察しそして最後に結論として、台湾俳句にとって「熱帯季題論」とは何だったのかと言う問題を考察した。 蘇氏はその論文の中で滔々と草間時彦の言を引用して曰く: 《季語というのは、俳句の作者とそれを読む読者の間に共通の場を作るものだ」と言っているが、作者と読者とが「共通の場」を作れるのは、一つの季題に対してもともと共通した「文学的美意識」を持っているからである。 その共通した「文学的美意識」とは、日本人の「文化的な記憶」
である。 これを伝統的な言葉で言えば季題の「本意」と言う。「本意」とは「文化的な記憶」を持った言葉である》と。 俳諧は、この「本意」の範囲内で、例えば「秋の暮」なら「さびしいもの」という「本意」の範囲内で詠じられていた。その為に、類型化を免れえず陳腐なものへと堕して行った。その弊害を除く為に、明治になって正岡子規が提唱したのが「写生」であったが、今度は、「現実の自然」と「季題の季感」との間のズレが自覚されるようになった。更に、台湾では「気候風土」の違い(「場所」の違い)による「現実」と「季題の季感」とのズレがあることが発見される。河東碧梧桐は、小林李坪の『台湾歳時記』の序文に、自身の沖縄体験を以下のように書いている、《文中の「朝顔」、「荻」「蛼(蟋蟀)」は秋の季題である。予は全国漫遊途沖縄と言う「外地」に行って、「現実」と季題との季感のズレが明瞭に感得されたのである。碧梧桐のこの体験は、「写生」と言う視点を持ったことによって獲得したものであるが、もし、「写生」と言う視点がなかったら、「朝顔」や「荻」は作句の際、無視されていたことであろう。このような「気候風土」の違いによるズレは所謂「内地」である鹿児島や青森にもあることは、桜などの開花時期が違うことからも推測できよう。しかし、「内地」ではそれ程問題にはされなかった。『ゆうかり』11 巻6 号(昭和6 年6 月号)に、藤田秀水は次のように言っている、季語というものは地方的一般見地が合致してそこに季題として認められるものではないかと考えるが、同じ内地に於いても北海道と九州とは花の時期に於いても多少の相違があるが然し其の気分に於いては少しも変わりはないのである。然るに之が台湾になると余りに其の対照的矛盾が大きいのである。(中略)台湾の季題は台湾独自の立場により独立せなくてはならぬものではないかと、つまり、台湾で季題のズレが問題になるのは、台湾在住の俳人にとって、「気分」即ち、「季感」が大分異なるからであると言っているのである。元来、季題と現実の間にはズレがあるものであるが、「気候風土」の違いにより、そのズレが大きすぎる》と。
2. 虚子の「熱帯季題論」:
そこで虚子により提唱されたの「熱帯季題論」である。虚子が「熱帯季題」を夏の季としたのは、第一には「季題」と「客観写生」(「花鳥諷詠」)とを両立させるためであった。日本に住んでいる俳人にとって熱帯の事物はすべて夏の季感を有するからである。第二には、伝統擁護のためであった。虚子は「日本本土に興つた俳句はどこ迄も本土を基準として、その歳時記は動かすべからざる尊厳なるものとして、熱帯の如きは一括して『夏』の季に概当すべきものである。さうでないと内地の季題に混乱を来して収拾すべからざるものになる」と考えていたからである。このように「熱帯季題論」は、日本の歳時記や季題を宗とする虚子の考えの中では、何ら矛盾するものではなかった。しかし台湾在住の俳人にとって、「熱帯季題」と「客観写生」とは両立するものではなかった。それは、眼前にある春や秋の季感を持った季物を詠じようとしても、「熱帯季題」により夏の句として詠まなければならないからである。例えば、台湾では「椰子の花」は春の季物と思われていた。虚子は、現実と季題とのズレを無くすために、日本の季感に外地の季題を無理やり埋め込んだが、孕江は、現実に合わせた季題を制定しようとしたのであった。両者の違いはこの点である。では、台湾では実際に「熱帯季題」を含めた季題はどのように扱われていたのであろうか。当時、台湾で使われていた季題には、日本の「季題」、「台湾季題」、「熱帯季題」の三種類があった。台湾の俳人はそれぞれの季題を次のように詠じていた。藤田秀水は次のように言っている。季語というものは地方的一般見地が合致してそこに季題として認められるものではないかと考えるが、同じ内地に於いても北海道と九州とは花の時期に於いても多少の相違があるが然し其の気分に於いては少しも変わりはないのである。然るに之が台湾になると余りに其の対照的矛盾が大きいのである。(中略)台湾の季題は台湾独自の立場により独立せなくてはならぬものではないかと思う。つまり、台湾で季題のズレが問題になるのは、台湾在住の俳人にとって、「気分」即ち、「季感」が大分異なるからであると言っているのである。「熱帯季題論」とは、日本俳句にとっても、台湾俳句にとっても、近代俳句が「写生」を取り入れたことに起因する、咲いても実を結ばない「徒花」のようなものだったと言えよう。しかもその「徒花」でさえ、小さな花が咲いたに過ぎなかった。それ故、台湾俳句にとって「熱帯季題論」とは、有っても無くても好いような物であったが、日本の俳壇にとっても「熱帯季題」は大した意味を持たなかった。南方の殖民地にでも行かなければ、使うことはない季題だからである。戦時中、「熱帯季題論」は戦争遂行のために利用されたが、敗戦により日本が南方の植民地を喪失すると、「熱帯季題」はすぐに不要なものになった。南方からの投句がなくなったからである。「熱帯季題」は結果として植民地季題となってしまったのである。しかし、今日では京都を中心とした日本の歳時記を宗とする必要はない。現実に、日本国内の「外地」である北海道から沖縄、更には日系人の多いブラジルやハワイなどでも独自の歳時記が編纂されている。もはや「熱帯季題論」のような日本中心主義的な考えは必要なくなったのである。現在では、各地方が、それぞれの地域の季感に合った歳時記を持ち、それぞれの地域の季感に合った句を詠じているのである。
黄霊芝氏の『台湾俳句歳時記』は、台湾俳句「自治」への第一歩であると言えよう。また、「写生」にばかりこだわる必要もない。「季題」と「現実の風土」とのズレは、「写生」にこだわったことから生じたものである。俳句を詠じるとは、現実をカメラで写し取るようなものではなく、「季題」を通して「文化的な記憶の世界」と「現実の世界」とに出入して逍遥する事である。ここで問題となるのは、「台湾季題」の「文化的な記憶」である。明治時代に初めて「台湾季題」となったものは、当時の日本人が珍しいと感じた台湾の事物であった。「台湾季題」を詠じた台湾俳句に佳句があまりなかったのは、「文化的な記憶」を持たない季題を詠じなければならかったからである。黄霊芝氏は俳句は「日本的」に詠む方が詠みやすいと述べているが、それは、「日本季題」には「本意」が確立されているのに対し、俳句を「台湾的」に詠むための「台湾季題」には「本意」が確立されていないからである。つまり、台湾俳句を確立しようとするなら、「台湾季題」の「本意」の研究をしなくてはならないと言うことである。台湾人には台湾人の「文化的な記憶」があり、日本人の「文化的な記憶」とは同じ点もあれば、異なる点もあるはずである。それ故、今後は、台湾俳句に現れた「文化的な記憶」(「本意」)の研究をして行きたいと思う。つまり、『ゆうかり』雑詠欄所載の「椰子」句の分析から得られた、「台湾俳句に於ける『椰子』の季感は夏と秋にあり、『涼しさ』や『月』と取り合わせて詠じられることが多かった」という結論は、台湾在住の日本人が有する「椰子」の「文化的な記憶」(「本意」)であったと言えると。
以上を整理すると、蘇氏は『台湾歳時記』、「台湾俳材解説」、『台湾俳句集』、『ゆうかり俳句集』の季題の考察を通じて、「台湾季題」にはどのようなものがあるのかを探り、「椰子」の句の分析を通じて、「熱帯季題論」とそれを巡る議論を考察して、台湾で俳句を詠むには、台湾特有の「文化的な記憶」を探るべきだとした。
3. 台湾の歳時記:
台湾に関する歳時記は二冊しかない、一冊は前掲の小林李坪の『台湾歳時記』である。これは日本統治時代に出版された唯一の歳時記で、二冊目は戦後2006年黄霊芝による『台湾歳時記』である。
蘇氏は小林李坪の『台湾歳時記』についても詳細な考察をしている。『台湾歳時記』は明治43 年6 月、東京の政教社から出版され、署名は「在台北小林里平」となっている。その構成は、春夏秋冬の四部立になっており、月ごとの分類はしていない。また、旧暦に拠っており、正月を春に入れている。季題の分類は人事・動物・植物の三部類となっており、天文・地理などは収録していない。四季別に見ると、夏が多く、冬が少ない。事項別に見ると、植物と人事は多いが、動物は極端に少ない。また特に、粟祭、釈典、媽祖祭、関帝祭などの祭りに詳しい解説が為されていると言える。李坪は水辺での「洗濯」を台湾の特別な風俗として季題にしているのであるが、その後、台湾の「洗濯」は、水牛、椰子、龍骨車、龍眼肉、荔枝などとともに、台湾を代表する風物として「台湾みやげ」用の絵葉書にもなっているところを見ると、当時の日本人には余程珍しく感じられたことがわかる。一年中する「洗濯」を夏の季としたのは、足まくりをして水に足を浸けて洗濯している様が涼しげに感じられたからであろう。小林李坪の『台湾歳時記』に対して、『台湾俳句歳時記』の著者黄霊芝氏は、『台湾歳時記』には例句が少ないという指摘をしている、数えてみると、確かに23 句しかない。また台湾にも台湾の四季がありで、はっきりとしないがその四季の移り替わりというものも感ぜられる。台湾に永く住めば、少なくとも俳人には其の点はかなり敏感になってくると思う。それで台湾歳時記を作れという要求も出てくるのであるが、さうなると中、南、北部とも雨期の相違の影響から、一率に台湾歳時記として纏めることが出来なくなる。つまり、同じ台湾といっても、島の南北では季節感が異なり、小林李坪の「歳時記」には、そのあたりの事がはっきりと書かれていないので、実際に句を作るとき不便を感じると。
台湾における第二冊目の歳時記 『台湾俳句歳時記』 は皮肉にも日本人が台湾を去ってから58年後の2003年まで待たなければならなかった。独自の季節感のある台湾では、当然「台湾季語」があるべきだということは、戦前の日本統治期から既に多くの日本俳人の間で問題になっていたが、明治期の小林里平『台湾歳時記』(1910 年)以来、本格的なものがなかった。一方燕巣俳句会の主宰羽田岳水も台湾季語の問題に興味を持っていた。『燕巣』1988 年6月号には戦前台中で俳誌『竹鶏』(テッケイ)を刊行していた阿川燕城がこの問題を論じた「台湾の季感」を寄稿している。そして1989 年12月号から1998 年9月号まで、『燕巣』に連載された「台湾歳時記」が元になって 『台湾俳句歳時記』が生まれたのである。全部で396 の台湾季語(正題季語)を制定し、各8句ずつの例句と336 字分の解説をつけて編集したもので、言語的にも台湾語の季語が220 項目と過半数を占め、日本語が161 項目、客家語が2項目、中国語(北京語)が13 項目と多岐に渡っている。しかし『燕巣』に連載されたものがそのまま著書として刊行されたのではない、内容的にも連載と刊行された著書とではかなりの差がある。連載では新年・春・夏・秋・冬という日本の俳句歳時記の伝統的な様式に従っていたが、著書ではこれを人事、自然・天文現象、自然・動物、自然・植物に大きく四分類し、季節も春夏秋冬ではなく、暖かい頃・暑い頃・涼しい頃・寒い頃と分けている。ただし人事にはこれに年末年始が加わり、自然・天文現象はこの分類に従っていない。
(三)日本語俳句:
1. 日本語文学:
俳句は日本に起源するゆえ、日本語で詠まれ書かれるものである。明治維新後国際交流が始まると自然そこに文化の交流があり、日本語文化の一員たる俳句もその潮流に乗ったばかりでなく、最も難しいといわれる詩の交流の中でいち早く世界中に行き渡ったのだ、何故だろうか?虚子の有季定型花鳥諷詠を死守する伝統派俳句の定則を以てすればそうではなかっただろう、が世界の詩人は彼らなりに俳句の本質を解釈し世界の各言葉で彼らなりの俳句を詠んだのが『HAIKU』なのだ。そのHAIKUの本質が伝統派の言う俳句の本質そのものなのかどうかは定見がない、正直のところ伝統派の定則が俳句の本質であるかさえも問題である。この俳句の本質の問題は『HAIKU』だけでなく、本場の日本国内でも存在するのであるが、有耶無耶の中で伝統派の言い分を鵜呑みにしているだけで、事実は問題があるが、みな好き勝手に解釈しているだけである。
さて台湾ではどうかと言うと、戦前においては明治と大正の半ばまでは俳句は在台日本人の専有物で、俳句について揉め事があるとすればそれは日本本国のそれと同じで変わりはない、ゆえに旧派もあれば新派もあり碧梧桐や放哉などの自由律派もある、そして、大正後期から昭和に至っては台湾人の参加も見られるようになった。研究者たちの研究によると上述の季語、季感、熱帯季語などの季節違和の問題のほかに日本人と台湾人俳句には同じ季語を使っても内容的に相異があった。日本人はただ周囲の自然界の描写の花鳥諷詠が主だったが台湾人の俳句には日々の生活の出来事や人事に関する直接に人間を詠む句が多かった。戦争が始まるといわゆる戦争俳句も数多く詠まれるようになった。このころの台湾の俳人にはかの有名な阿川燕城がいた、かれは台中商業の先生でまた多くの台湾人俳人を養成した。台湾人俳人には王碧蕉(1915~1953)、頼天河、呉新栄(1907~1967)、郭水潭(1907~1995)などがいた。王の言うには「俳句が日本国民詩であると共に他民族に弘通する可能性を信じていたにせよ、俳句が広く普及するには季という大きな金しばりがあり、これが他民族に弘通する際の障害になっている」と。
1945年終戦と同時に台湾の知識人は一夜にして文盲となった。初めの一年はまだよかった、まだ日本語が使えたからだ、が二年目からは日本語は絶対禁止になった、今まで日本語で文芸に携わっていた人たちは筆を捨てるか外国語として中国語を習わねば生きるすべはないのだ。そして続く1946年に日本文禁止令、1947年の228大虐殺に続く白色テロと38年間続いた戒厳令(1949~1987)、あまたの台湾人知識人が闇の中に消えたが、一方、時代の渦のなかをうまく泳ぎ抜けて利権をつかんだ台湾人高官富豪もまた少なからずいた、これ世の常、特筆することもないが、この間台湾の日本語にも浮き沈みがあった。1950年代には日本語は絶対のタブーだった、1960年代の後半期に少しづつ緩和され日本留学も許されるようになった、しかし日本語書籍の持込にはまだ厳重なる規制があり、当局の検閲を通らなければならなかった、例えば英和辞典さえも一ページ一ページ検閲され、人民共和国や蒙古共和国などの英語単語は墨で塗りつぶされた、そして友人が贈り物として持ち帰ってくれた当時貴重なLPのレコードセット十二枚は丁寧に鋭利なナイフで傷物にされリプレーすることができなかった。1970年代に入ってようやく私立の大学で日本語学系が設立された、国立大学で最初の日本語学系が台湾大学に設立されたのは1994年のことであった。そのころには民間では日本ブームが沸き立ち、日本の映画、書籍、歌謡、レコードに若い人たちがつめかけ、哈日族と呼ばれ、大学で日本語や日本文学を専攻する学生の数がその他の外国語を凌駕するようになった、そして日本へ留学する学生も一途に増えた。この人たちが前述の台湾における日本短詩文学の研究結果に貢献したのである。
2.0 跨言語世代の俳句:
話は戻って、一夜にして文盲になった文芸作家や愛好家達のうちで、筆を捨てた人もあったが、また多くの人が筆を握り直して新しい言語に一から挑戦した、そして多くの人たちがその障害を克服したのだ、いわゆる跨言語世代の人たちであった。はじめはたどたどしい華語だったが、日を重ねるにつれて自由にこなす人の中には日本語と同じように抵触された台湾語を使う人もいた。詹冰、巫永福、陳千武、林亨泰、傅彩澄、蕭翔文らは俳句界における二刀流の使い手である。黄霊芝は日本語の俳句を主に、後に漢語俳句をも詠むが、彼が俳句を詠み始めたのは戦後であり戦後台湾唯一の俳句結社の主宰たる立場にあるゆえ、後で特筆する。またかの「四六事件」で命からがら中国に亡命し彼の地で俳句を広めた朱実こと瞿麦についても後で詳述する。
2.1 詹冰:
ここで初めに提起したいのは詹冰である。詹冰本名は詹益川(1921~2004)、台湾苗栗県卓蘭の客家人である。中学生時代から詩が好きで、台中一中在学中に台中図書館の俳句募集に応じて受賞した。父親の反対を押し切れず東京の明治薬専に学び薬剤師になったが、留学中に大いに詩作に励み、その間堀口大学にも文面で教えに預かった。1944年帰台後まもなく国籍転換に遭い、詩作に使い慣れた日本語から中国語に切り替えざるを得なかったが、よく困難を克服して、亡くなるまで華語で詩作を続け多くの児童詩や新詩を残した。ここで特記したいのことは彼が漢字十字で漢語俳句を詠んで、それを「十字詩」と名づけた。さすがは俳句の達人、俳句の定型、構成、詩境、詩情など、黄霊芝と同じようによく俳句の本質をわきまえているゆえ、漢字新詩型の「漢俳」を俳句と見なすことはなかったのだ。生前彼は評論家莊紫蓉の詹冰訪談録において日本の俳句を翻訳したのが十字詩だと、そしてどう違うかと問われたとき: 詩境に違いはなく、詠みおわっていない部分は山水画の留白に相当し多くの想像空間を残している、これが十字詩だ、私は300句を越す十字詩を詠んでいるが発表されたの100句あまりだけだと答えている。この答えから詹冰の認知では十字詩こそ真の漢語俳句であることをしる。
2.2 朱実(瞿麦):
「銀鈴会」は台中一中の学生である文学青年朱実、張彦勲、許世清らが1942年に発起した文芸団体で、1944卒業間際に会の名を「銀鈴会」ときめ、会員は台中一中の学生を中心に外部からの参加もあり、会誌「ふちくさ」を刊行し、詩、童謡、短歌や俳句創作などが発表された。言語は初めのうちは日本語であったが1945年に時代が変わると中国語に変わり、メンバーも中国本土から来た中国人も参加するようになった、が1949年4月「四六事件」で当局による手入れが始まるとメンバーは散りじりばらばらになり、ある者は捕らえられ、果ては銃殺されるものもいた、またある者は島内や中国へと逃げ渡った。とうじ台湾師範学院(後の師範大学)の三年生であった朱実は機敏で逸早く危険を悟り、中国に逃げきった一人で、後に中国で文学活動に従事し、俳句や漢俳の発展に貢献した。彼は中国では別の名を使っていた、瞿麥こと朱実である。周恩来が日本を訪れたとき翻訳をつとめたのも彼だった。「北京週報日本語版」 2008年6月20日に彼の紹介記事が載っている:「1992年4月、日本の伝統俳句協会の一行40数名が伊藤柏翠副会長の引率のもと、瞿麦氏を副団長兼講師として北京、西安、桂林を訪れた。観光後、上海の花園飯店で「中日友好漢俳・俳句交流会」と銘打った催しが行われた。上海の著名な文化人である杜宣、羅洛、王辛笛の各氏ら数十名が参加し、各自が自分の作品を吟じた。これは、中日初の漢俳・俳句交流会であり、また同時に漢俳・俳句集『杜鵑声声(ホトトギス)』を出版して中日の漢俳・俳句交流に新たなページを切り開くものでもあった。日本航空は毎年、「世界こどもハイクコンテスト」を開催しており、すでに10回を迎えるとともに特集本も出版された。瞿麦氏は、中国地区でこどもハイクの評価・選考にあたり、選考した漢俳をハイクに訳して日本航空の審査会へ送る責任者となった。彼は招聘されて日本の国際俳句協会の評議員にもなった。中国の子どもの漢俳に対する興味と愛好を培うため、彼は上海少年宮へたびたび出向き、コンテストに参加する児童を指導したため、上海の子どもらの漢俳は群を抜いており、賞を獲得している。例えば楊妍菲ちゃん(8歳)が受賞した漢俳は「無数水宝宝/赤橙黄緑青藍紫/架成彩虹橋」(たくさんのお水の赤ちゃん/赤、だいだい、黄、緑、青、藍、紫/虹の橋を架けた)という純真で愛らしいものだ。瞿麦氏は漢俳を学ぶ子らを養成して日本との交流を推し進めるだけでなく、上海の外事翻訳者協会に「俳句・漢俳研修班」を設け、講義を行うとともに彼らの作品の添削を行い、日本との交流活動も組織している。2007年12月、中日国交正常化35周年の折りに瞿麦氏は上海外事翻訳工作者協会の支援のもとに、上海の魯迅記念館で「中日詩歌交流展」を開催し、日本俳句協会の会員および上海駐在日本総領事館の文化領事、上海の漢俳・俳句愛好者など数百人が参加した。交流展では中日の漢俳、俳句、短歌など多岐にわたる作品が出展され、特集本が出版されたが、中国側の出展者の多くは瞿麦氏の薫陶を受けた人々であった。交流展終了後、これを機に「俳之橋詩社」が設立された。瞿麦氏が中日の漢俳・俳句交流の道を切り開いたことは、中日文化交流史上に輝かしい1ページを留めることだろう。」
朱実は1994年に一度台湾へ帰って来たことがある、そしてかっての「銀鈴會」の舊友たちと会った、旧友の蕭翔文は日文短歌同人誌「たんがら」に一文を残した。他はまた1960年代上海で《毛澤東選集》の日本語翻譯をした、1972年上海芭蕾舞團が訪日したときには訪問團の秘書をつとめた、また日本においても、早稻田大學、神戸學院大學、二松學舍大學、岐阜經濟大學中國文學客座教授の座にあった。彼はまさに激動の世界の渦の中に身を投じた、台湾の跨言語世代が世界俳句界に送りだした台湾、中国、日本三国にまたがる台湾出身の俳人なのだ。後で言及するが彼ははっきり「漢俳」は俳句でないと言い切っている。彼の俳句に:
半世紀時空を越えて秋思かな
長かりしタイムトンネル時計草かな
の句がある。
2.3 黄霊芝、台北俳句会、
さて戦前、台湾の俳句や短歌の結社は日本人を主にするものであった。前述の銀鈴会は例外というべきであると共に、日本語の普及が目に見えてきた証拠でもある。が1945年、戦後一夜にして文盲になった知識人や文芸人と学生は急速に中国語を習い始めた。しかし、そこにまた障害が待ちうけていたのである。中国ではそのころ国語統一運動のさなかで、20年たったばかりでまだまだ反対者が多くいた、日本で標準語が制定されたころ関西語の反対や志賀直哉のフランス語採用論と同じような混沌なる時代であり、特に1949年蒋介石政権が50万の大軍と別に50万人の避難民を連れて台湾に来たとき、全中国各地の方言が一度に台湾に流れ込んだ、学校の先生が話す言葉もみな違い、文部省の決めた標準語の発音記号(注音符号)をたのみに曲がりなりにも標準語というのを覚えたが、事実上、それは横道にそれた標準語であり、加えるに中国と台湾の50年の隔離のうちにそれぞれの新しい言葉(単語、名称、表現)が生まれた、それが今70年後台湾で話されている台湾国語である。もともと注音符号は今の中華人民共和国の普通語の発音を基にしたのであるが、全国の方言が混じりこんで、今の台湾国語になったので、普通語と台湾国語の発音は同じであるべきところを、日本の外国語大学でも違った言葉として教えている現状なのだ。
跨言語世代に居座りながら、いまだに日本語を使う人々を台湾の「日本語族」と研究者たちは呼んでいる。なかんずく、これら「日本語族」の一人である黄霊芝は1928年生れで本名黄天驥、日本人よりも造詣の深い日本語を駆使して俳句に馴染んでいるのである、そして1970年以来42年間、戦後唯一の組織ある日本語俳句結社「台北俳句会」の主宰でもあり、また2003年には東京の言叢社から戦後唯一の日本語の「台湾俳句歳時記」を刊行している。これらの功績により2003年には正岡子規国際俳句賞を受賞し、2006年には旭日小綬賞を受賞している。彼は俳句のみならず多くの日本語小説を書いている、2006年に岡崎郁子が一部を編集して『宋王之印』(慶友社)という書名で黄の日本名国江春菁で出版している、また2012年には下岡友加が『黄霊芝小説選』を編集して黄霊芝の名で広島の渓水社から出版している、また黄は彫刻にも秀でて、1962年にはフランスで開催された第二回パリ国際青年芸術展に彫刻『盲女』を出品し入選した。
黄氏の俳句について特記するところは正式に師匠を持っていない事で、すべて自習によるものであることである。自分史によると中学に入ったとき台湾人でありながらよくも日本人学校に入学してきたとして日本人のいじめに遭い、肋骨が折られ、血尿を出すほどの暴行に遭い、のち恐怖症になり一年休学し、中学三年で終戦を迎えた。彼は日本人にひどい仕打ちを受けながらも如何してこれほどまでに日本語に現を抜かしたか、自分は親日家でもなく、日本贔屓でもない、只日本語が自分にとって最も使いやすいまた奥行きのある言葉だからと言っている。終戦後学歴を偽って大学に入学したと自分史で言っている。日本でも同じと思うが、終戦当時の社会はどさくさ紛れにいろいろな不可能が実現したのだ。台湾には大陸、日本本国、満州、朝鮮などから多くの人たちが帰ってきた、一二年の差で進学に四五年の差がついたのは珍しいことではなかった、黄は私の二歳上だったが私より五年も早く大学に進学した、しかし間もなく肺を患って休学せざるを得なかった。その後喀血などを経験しながら、長い間肺結核の養生の途にあった。この間彼は身元に集めた書籍を猛勉したのだ。かれは不幸のようでその実また幸運児でもあった。かれは台南で一二を争う大資産家の末っ子で上には八人の兄弟姉妹がいた、終戦後二年で相次いで母と父を亡くしたが同時に残された膨大な資産と骨董玉石、その上天賦の芸術の資才、彼は日本に送還される日本人の蔵書家の膨大なる蔵書(荷車二台、千冊近く)を一括して買収し得たのだ。想像するに彼は病床にあってこれら知的財産を全部精読、その真髄を吸収し、すべてを物にしたと私は解釈する(自分では乱読したと言っている)。玉石に関する能力も家蔵の骨董玉石からの実際経験と書籍からの知識によるものと思う。彼の小説にはよく金銀玉石が出てくる、また博物館の玉石の解説もされている。彼の芸術に関する天賦の才に加えるに、資産が彼の今日をあらしめたのだ。彼の博識多才は小説と句評の内容からも窺い知れる。彼の句作や小説の真髄内容を本当に了解するには、彼の一般に知られる出自の上に彼の生い立ち環境をよく知らなければできない。私の知る限り彼の作品に関する一般の解釈はまだまだ足りないところがある。
阮氏の研究報告によれば、台北俳句会の創設は一九七〇年七月である。主宰の黄霊芝氏は「台北歌壇」(のち「台湾歌壇」に改名)のメンバーであり、歌壇の活動で一九七〇年の六月、台湾でのアジア・ペンクラブ会議に参加した川端康成、中河與一、五島茂、東早苗など、日本の文芸家と会った。台南へ案内することになって、「汽車の中で台湾にも俳句の会が欲しいという話が湧き、帰北のあと俳句の運座をした。これが台北俳句会の発足のはじめである」という。周知のように、当時の台湾は国民党政府の戒厳令の下で、結社どころか、日本語に関する資料の流通さえも禁止されていた。それにもかかわらず、黄氏は台湾で日本語の俳句会を創設した。当時の状況の厳しさは、俳句会の命名からも一端が伺える。メンバーは台北だけではなく、台中、台南にも多く、全島に及ぶのに、どうして「台北俳句会」と名乗ったのか。このことについて、主宰の黄霊芝氏は、「実質的には会員が全島に跨り、『台湾俳句会』であるべきだったが、当時「台湾」の二字には反国思想の嫌疑が実しやかにかけられやすかったため、殊更にこれを避けたのであった」と説明している。句会の進行方式は毎月の第二日曜日に、台北市にて開く。創設以来、終始黄霊芝氏の手書きプリントを資料として進められている。進行方法は日本の各俳句会とおおよそ一致する。同人は、プリントに書かれた季語の解説を参考にして、自作三~五句を句会五日前までに黄霊芝氏へ送る。黄氏は同人の句を匿名でまとめる。そして俳句会の当日正午頃、同人は資料と選票をもらい、食事をしながら五句を選句する。食事が済んだ午後一時頃、同人の陳錫恭氏が同人の選句を読み上げ、作者は名乗り出る。同人は、それぞれの句について、用語と文法、季語、写生、発想などについて、自由に意見を述べ鑑賞する、その後、黄が句評を配布する。句会後は、編集者が当日の選句の結果、主宰の句評、そして互選一覧表を届ける。台北俳句会の特徴としては同人の平均年齢が高いのが、この句会の特徴である。「生粋の台湾人、台湾人と結婚した日本人、台湾に出張している日本人、日本在住の台湾人、日本に住む日本人、外国に住む人、...」、また官吏、商人、医師、教授、家庭主婦、会社員、教師、学生、リタイアーした人など、さまざまで主として会員の紹介で参加している、最盛期の一九九〇年前後には同人が百人近くいたという。特筆すべきは1969年に発足した「台北歌壇」から分立されたので最初は多くの歌壇の人が参加していた、歌人や俳人がお互いに掛け持っていたというのは日本のそれとは大いに趣を異にするものである。また当初は上述の跨言語世代が多くいた、頼天河、呉建堂、蕭翔文、巫永福らである、又親子二代での参加者もいる(陳秋蟾、陳昭仁)、これらの多くの人は、句集を刊行している。台北俳句会の句作は高齢者としての述懐や歴史、生活、そして言語の面に属する句など、人事や生活に関する句が多く、黄氏が句評でよく説く花鳥諷詠の客観写生句はそう多くはなかった。同人のイデオロギーは台湾特有の二大類両方ともいた、すなわち台湾意識を主とする台湾派と中国に傾く国民党派である、その点台北歌壇は台湾派が主なようで、国民党の甘い汁を吸った国民党派は追われて台北俳句会に来たという噂もある、主宰の黄は会で政治を論ずることを原則上禁止はしているが政治に関する句も見られる。『台北俳句集』は会員の句を各自20 句ずつ掲載して年度ごとに発行している。いままでに刊行されたのは39集(2012.8)で、別に2010 年12 月『台北俳句会四十周年記念集』が刊行されている。惜しむらくは『台北俳句集』と黄氏の創作のほとんどが自家版であるため日本ばかりでなく、台湾でも知るものまれである。貴重な文献がみすみすなくなるのを見るにしのびず、2009年私が入会したとき極力進言したが、取り巻きの古参高齢者に取り合って貰えず、40週年記年号だけは出版前日に無理にもISBN登記をさせたが、その後の俳句集の刊行もまた元の木阿弥、40周年記念集は小生が自分でスキャンして個人のウエブに載せた。(2012年の末、若い人が幹事になったあとはネットでも作品が読めるようになったようだ)。別に1980 年に「台北春燈句会」(現・春燈台北句会)が創立され、10名前後の小さい句会ではあるが今日まで存続しており、メンバーの多くが台北俳句会の会員と重なっている。2011年の末から黄の健康が思わしくなり、会に出席するのも無理になり、2013年には会の世話役も高齢のため日本留学帰りの若いかたに幹事を引き渡した。若い方は新しい媒体のツールが使えるゆえ、句会の事務のやり取りも便利、迅速になったが、主人のいない家はやはり寂しい、春燈俳句会のほうも同じ若い方に幹事をゆだねたが、やはり同じ苦境に落ちている。なんとか在台、在日日本人に助けを借りて維持しようとあがいているもようだが、当初からみんなが心配していた日がせまった来たようだ。日本人が主になるようなことになったら、それは真の俳句会ではなく日本語習得の場でしかなく、または日本人懇親のクラブのかたちになってしまい、そこに参加する台湾人は日本語練習のための参加であり、俳句会の意義をなさない。
黄氏の『台湾俳句歳時記』は台湾季語の問題に立ち向かった著作である。全部で396 の台湾季語(正題季語)を収集している。各句には解説と8句ずつの例句があり、うち台湾語の季語が220 項、日本語が161 項、客家語が2項、中国語(北京語)が13 項となっている。燕巣俳句会の主宰・羽田岳水も台湾季語の問題に興味を持っていた。『燕巣』1988 年6月号には戦前台中で俳誌『竹鶏』(テッケイ)を刊行していた阿川燕城がこの問題を論じた「台湾の季感」を寄稿している。内容は当初羽田岳水の主宰する俳誌『燕巣』に1989 年~1998 年まで連載されたものがまとめられ加筆や修訂がされ著書になったのである。磯田氏によると戦前の台湾季語は南国的な異国情緒に富むに対し、黄氏の台湾季語は土着性と文化的複合が大きいと。また一つの発見はここに収められている台湾季語は台湾俳句集の句(黄本人を含めて)にはあまり多く詠みこまれていないということである。
(四)外国語俳句(HAIKU、漢語俳句)、ネット俳句:
戦前、日本語短詩文芸の教養を獲得し、戦後の言語の推移に馴染めなかった台湾人は「日本語族(人)」となり、その一小部分が日本語短歌、俳句創作に籍を置くことになったのだが、はたしてこれらの人たちはほんとに詩才があったのか、または詩に興味があっただけなのか私にはわからない。思うに日本の俳句結社と同じではないかと。なぜ結社に高齢者や女性が多いのか、まだ日本でも結論がないようであるが台北俳句会でも同じ傾向がある、高齢者のほうは若き日の言語記憶のノスタルジアと実行と解釈できるが、女性のほうは?で結社の人たちは只暇をもてあましての言葉遊びで句会に参加しているのか?というものもいる。
歌人そして俳人の呉建堂(孤蓬万里、台湾万葉集の編者)は確かに詩才の天賦に恵まれ、詩人の性格が普段の言行からはっきりと感じられ、誰も疑う人はない。呉建堂には私だけしか知らない逸話がある。彼は歳も医学も私の4年先輩である、1982年のある日、突然院長室に私を訪ねてきました、彼は当時基隆市立病院の院長で私は台湾省省立台北病院の院長でした。彼とは面識がなかったが、同業なるゆえ院長室へお通ししたのだが、彼の発言にはびっくりさせられました、彼はいう:「あんたの今の院長職を僕に譲らないか」と、私はあっけとられて返す言葉も出ませんでした、まず省立と市立ではレベルが違う、また公立なるゆえ院長職の任免は資格と共にも上官の裁可もなくてはならない、政府の正式令状が必要なのだ、こんな常識外れの要求に答えられる筈はなかった。なんとかうまく話して返したものの、彼のこのような単刀直入、ぶっきら棒な性格はよく詩人の性格を表わしているものと後日了解することができた、私のような凡人には真似さえできない言行なのだ、当時私は彼が歌人また剣道8段の達人であることを知る由もなかった。彼もその後台北病院ではないが地方の省立病院の院長に出世と歴任をした、尊敬すべき天賦の詩人である。
さて日本語の俳句でなければ何語で詠むか?当然台湾語か台湾の公用語である台湾中国語(台湾国語、日本の外国語大学では中国の普通語と区別している)となる。時の流れについて黄氏も漢語俳句を創作した、さすがは俳句の真骨頂を会得した黄氏であった、それゆえ漢語(台湾語、台湾国語)での創作も俳句の本質から外れてはいなかった、真の漢語俳句である、ただ惜しみらくは季語を必要としたことである、しかし黄氏のある季語には夏石氏のキーワードの匂いがある、それは世界俳句に通ずる道であり真のHAIKUというべきだと私は思う。磯田氏は黄氏の漢語俳句を日本俳句の翻訳というが私はそうとは思わない、俳句の本質を歩むHAIKUである。黄氏は「湾俳」という造語を使っている、それは大まかに台湾という環境で創作された俳句の意味で、台湾文芸と台湾語文芸の違いをさす。黄氏は台湾で日本語文芸を多く創作したが、一部の人から台湾文芸ではないと貶められた苦い経験があるゆえ漢語の台湾俳句(湾俳)を台湾で創作された漢語俳句の意味にしただけである。しかし私は台湾俳句(湾俳)をあくまでも純粋の台湾語で詠まれた俳句と解釈したい、でなければ今世界で詠まれているHAIKUに添わないからだ。漢語俳句と湾俳の詳細については『世界俳句』第7号pp101-113をご参考ください。黄氏は1993年、知人で時の台北県長尤清氏に働きかけて県の文化センターで漢語俳句教室を設立し三ヶ月(28時間)を一期とし、四期続いた後、漢語による台湾俳句会を結成し、一人でも天才がいる事を望んだが、どうも当てが外れたようである。彼は同じ文の中で言う、ある人の詩を了解するためにはまずその人の平生を知るべきだという論法である、たとへば作品の互選をするときに、まず作者の意見を聞かなければ、この一作の必然性やその趣、そのよさがわかる筈がない、つまり作品は作者あっての作品である、と言う主張を彼は斥けた、いうには作者の知れないミロのビーナス像を、作者の知れるモナリザより美しいと彼は思うと言うのである、続いて彼は言う、小人の僻み根性かもしれないが、と。天才的思惟である、が一昔前彼は自分の作品が他人によって翻訳されるのを忌み嫌った、その彼が2011年東行(張月環)氏の漢語詩集の日本語翻訳を引き受けた、その訳者のことばに彼は言う「文芸作品の他国語への翻訳は、(中略)極力これに反対してきた。その私が張月環さんの詩集『果物の詩』の日文訳を引き受けすることになった、キツネに撮まれるとはこのようなことであろうか。(中略)とまれ、翻訳にはかならず誤訳が伴う……。だがしかし、作品とは作者あっての天下である。……」と、天才のひらめきというか、私のような凡才にはわからない。またいつの日にか天才の新しいひらめきもあることだろう。
黄氏のほかにも幾たりかの漢語詩人が漢語俳句に立ち向かった、彼らは国際的にも知られた詩人である、それ故詩才、詩情については言うことはない、はっきりと俳句と銘うって出された俳句集もある、がどうも俳句と言いがたいようである。その理由が謎めいている、私なりに想定すると多分俳句の本質に触れる漢語俳句について解釈や説明がたりないのが原因の一つであるが、日本国内での俳句の本質に関する論説の不定性にも由来すると考える。俳句とはと聞くと、必ず先ず有季定型を持ち出す、そしてそれは広い俳句の意味での一つの型であるとは言わないで、それが一切のように言われる、日本語を知らない外国人はこんがらがってしまい、挙句の果ては漢俳という俳句の俳の字の付いた俳句でない新しい漢詩の一型を生み出し喜ばれている、まことに悲しい喜びですが。
漢俳が俳句でないことは黄氏もはっきり言い切っている、そして前述の朱実こと瞿麦氏もそれに触れている。で私の漢語俳句に関する考えは別に載せてありますので【呉昭新:《漢語/漢字俳句》―漢俳、湾俳、粵俳、……とは?-『世界俳句』-2011 No:7、pp:101-113; 世界俳句協会、日本 】までお越しください。
黄氏のほかにも二十世紀末、台湾の新聞で一時俳句熱がありましたが、長続きはしませんでした、原因は俳句に関する理解が不足だったと私は解釈します、そのまたの原因を正せば日本本国の俳句に関する意味付けの不定性によるものと思います。
ネットをサーフインしますと最近若い人たちが中国の漢俳の真似をして漢俳を俳句と思って一生懸命頑張っているようです。漢俳を漢俳、漢詩の一新型、として詠むのはよい事ですが漢俳を俳句と間違ってもらっては困ります。でもこの二三年「漢俳は蘇俳よりも俳句に似ていない」と言う書き込みを見つけました、このグループの人たちは他の人たちよりもある程度俳句の本質に近づいているようです(蘇俳とは旧ソ連の俳句のことで、いまのロシア俳句にあたります)。私が『《台湾俳句》之旅』の一文をネットに載せてからはや四年半が過ぎました、ネット上の延べビジター人数は約4000人に上ります、けっして多い数ではありませんが、台湾にも俳句に多少興味を持つ人もいるということです、ほかに小生の俳句に関する文章および湾俳、華俳の自詠句のページへのビジターも少なくありません。また明らかに私のウェッブサイトに呼応して客家語で詠まれた客俳のブログも出てきました、惜しむらくはまだ漢俳を漢語俳句の典型と思い違いをしているようですが。黄氏の漢語俳句の台湾俳句会にもっと若い人が集まるのを願っていますが、今のところ黄氏の健康も関わっていますので望みは薄いようです。
(五)台湾俳句の未来:
台湾の俳句会は高齢者が多かったため、ネットでの新しい俳句の方向を知るのにハンデイキャップがありました、でも去年あたりからタブレットPCが出回り、高齢者でも使いやすくなったゆえ、使用者も増えてきました、ネット消息の遅れによるハンデイもそのうちに追々無くなるでしょう。
最後に望むことは台湾では、黄氏が築きあげた台湾の俳句会を若い人たちが受け継いで真の漢語俳句および俳句の本質に則った俳句(HAIKU)を詠むことにあります、有季定型、花鳥諷詠、写生の伝統俳句は俳句の一つではあるが全部ではありません、これをわきまえる事が台湾の若い俳人に課せられた務めであります。
角帽の写真を飾り二二八 許秀梧
二二八事件:1947.2.28日(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6 )
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主な参考文献
1) 沈美雪:『相思樹』小考― 台湾最初の俳誌をめぐって ― (日本台湾学会報第十一号(2009.5) (全14ページ)日本台湾学会報 第十一号(2009.5)(日本語)
2)阮文雅: 異国人の日本語文学――台北俳句会の一考察;植民地文化学会 2008年7月13日(日本語)
3)蘇世邦:台湾俳句の季題について-「椰子」の句を例として(南台科技大學/應用日語系/97/碩士/097STUT0079004)2009(全141ページ)(華語)
4)沈美雪:「漢字文化圏における俳句受容の現状と問題点―台湾俳壇の歴史を中心に―」 2006 年6 月3 日(『日本台湾学会第八回学術大会報告者論文集』所収)(日本語)
5)沈美雪:「明治期の台湾俳壇について――俳句受容の始まり――」
『2007 年度日本語文・日語教育国際学術研討会会議手冊』2007 年12 月銘傳大学応用日語学系・台湾日本語文学会・台湾日語教育学会 所収。(日本語)
6)沈美雪:「台湾に於ける俳句受容の始まり――俳句流入の十年間をめぐって」 『明道日本語教育』第2 期 2008 年7 月 所収。
7)磯田 一雄: 戦後台湾における日本語俳句の進展と日本の俳句結社
―『七彩』・『春燈』・『燕巣』とのかかわりを中心に―東アジア研究(大阪経済法科大学アジア研究所)(日本語);第57 号, 2012 年, 1- 14 ページ(日本語)
8)磯田一雄:黄霊芝俳句観の展開過程 -「台湾俳句」に向かうものと超えるもの-(天理台湾学会年報 第17号(日本語)(2008.6)
9)磯田一雄:皇民化期台湾の日本語短詩文芸と戦後の再生ー台湾的アイデンテイテイの表現を中心にー(天理台湾学会年報 第19号(日本語) (2010.9)
10)朱実:中国における俳句と漢俳;『日本語学』-vol.14:53-62(1995)-明治書院-日本;(日本語)
11)夏石番矢:現代俳句のキーワード;『日本語学』-vol.14:25-31(1995)-明治書院-日本;(日本語)
12)呉昭新:《漢語/漢字俳句》―漢俳、湾俳、粵俳、……とは?-『世界俳句』-2011 No:7、pp:101-113; 世界俳句協会、日本;(日本語)
13)福永法弘 旧領の日本語俳句(平成22年10月)(日本語)
14)劉淑貞『黄霊芝文学之研究―以《台湾俳句歳時記》為中心』中国文化大学日本語文学研究所碩士論文、2006
年、124 頁).(華語)
15)阮文雅:中国語俳句における俳句記号の移植と変形 (華語)南台應用日語學報 第7號 2007.11
16)李秋蓉:詹冰及其兒童詩研究:國立雲林科技大學漢學資料研究所碩士論文;(2003)(華語)
(2013.05.20脱稿;2014.11.08修正)
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