虹ノ松原 (唐津)

(2009年十一月唐津鏡山より撮影

遥か下虹ノ松原冬霞 (唐津鏡山)
下界なる虹ノ松原冬霞(唐津鏡山)

唐津湾沿いに、虹の弧のように連なる松原。唐津藩初代藩主、寺沢志摩守広高が、防風・防潮林として植林したのが始まりで、全長5km、幅1kmにわたって続く松は、約100万本と言われています。今では、三保の松原、気比の松原とともに日本三大松原の一つに数えられ、国の特別 名勝に指定されています。NHK「21世紀に残したい日本の風景(BS2)」の投票で、第5位 に選ばれました!(唐津観光協会)

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世界の俳句

有季‧無季 定型.自由律 花鳥諷詠‧人情世故  時事‧社会 客観写生‧主観感動

 みんな みんなの母語でよむ俳句

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齢七十五にてつと去りし日を振り返りみて我自身を知る…
波の間に間に 流されるまま 人を羨むことなく 求めることなく
世間と争わず なれど 荒波に遭うを 免れ能わず
思いもよらない 公務員年金を亨く 多からずとも又 少なからず

命を保つに 憂うこと無し
キーボードを たたいて インターネットに遊ぶ

得るところ有れば 又与える事もあり
名利共に 余生の外にあり
(オーボー真悟)
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 (オーボー真悟)
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2012年4月12日木曜日

エッセイ-007

畏友獅子鮟鱇氏は生粋の東京人、彼のブログに昨日十数年ぶりで奥様と銀ぶら、そして帝国ホテルに一晩宿泊したと(生涯に一度くらいは「昭和の臭いがする」帝国ホテルに泊ってみようということでそうした。)と書いてあった、それでふと去年の秋の自分の事を思い出した。過去何回か東京に泊まった事があるが、まだ御三家にはとまったことがない、一生サラリーで過ごした自分には到底高嶺の花、不可能、よくてせいぜいビジニスホテルより少し上のクラスのホテルのスタンダードルーム位、例えばプリンス、ヒルトン、京王ブラザー、ハイアットリージャンス位のクラスで済ましていた。今は亡き中学の同窓K君、長い間アメリカの大学で工学の教授をしていたが、よく私に言うのには、日本の会社に招かれてその事業のコンサルタントとして日本へ行った時にはホテルオオクラに泊まったとか、そして……、それで小生も無理をしてでも一生に一度はとまってみたいと思っていたが、ずっと機会がなっかた。だが思いがけなく去年東京へのトラベルのチャンスがあったので最初の一晩の宿泊をホテルオオクラにとってみた。宿泊料は二倍ぐらい取られたが、まあ一応は念願を果たしたわけだ、鮟鱇氏と同じ思惟かどうかは分からないが。ホテルは改修中でまた311東日本大震災と原発の影響か客はそう多くはなかったようだ、設備、インテリヤ、ムード、食事、皆申し分なし、家内も自分も歩行が無理なので芸術品のコレクションの参観は割愛した、でも家内の記憶では何時だったか忘れたが大分前に東京に来た時参観に来たことがあると。



鮟鱇氏はまだ書いている、千鳥ヶ淵で桜を愛でたと、そうだ小生にも同じことがあった。2006年の三月のことだった、その前の年の十月に父が一年半あまり入院退院を繰り返して九十七歳で亡くなった、その間私ももう75歳の老人で大分体にこたえた、妻も2000年に大腸がんの子宮と膀胱転移で手術を受けて六年余りを過ぎた後、一年の化学治療が効いたのか手術が完璧だったのか、幸いにも再発もなく過ぎ、私の疲労もようやく回復し、季節は三月の終り近く、家内が花好きなので房総半島の花の栽培を見ようと思い立った。成田空港から電車で銚子へ、そこで一晩泊まって、つぎに勝浦で二晩泊まり、花畑を目当てに電車と車で房総をまわった。最初に電車で館山までゆき、駅の観光案内所で花畑について尋ねたところ、もう花の季節は過ぎたとの事、ジジババと見たのか若い女性にけんもほろろに相手にされず、ここまで来てどうしようかと困っていた矢先、ふと近くにタクシーが止まっているのを見つけた、運転手さんに案内所に尋ねた事を繰り返したところ、ありますよ,お連れしましょうときた、喜ぶ心を抑えて、時間制料金で直ぐに話も決まり、それから三時間あまり館山から鴨川までの南房総の花畑をあちこち参観し、鴨川から勝浦までまた電車で帰った、これで今回の旅行の目的を果たしたので溜飲を下ろして以後の旅程は気楽だった。


で話を戻して、鮟鱇氏の千鳥ヶ淵だ、房総から東京へ出て二日そこで休んだ後京都へ行く予定だった、東京についてホテルに入って一休みした後テレビを開けると丁度ニュースで千鳥ヶ淵の桜が満開で人出で賑わっていると、今回の旅行には桜見物は予定に入ってなかった、その年は気温がおかしいのか桜前線は関西を跳び越して東京が先に開花したのだ。東京で桜の花見をしたことがないので、いい拾い物だとあくる日早速千鳥ヶ淵に出掛けてみた、休日ではなかったが本当に人の山で人の波におされて出たところが靖国神社だった。境内の中の桜も満開だった。その頃もうあまり歩けないのでベンチに腰を下ろして一休みをしようとした、ふと前方に石碑が見えた、なんだか外国人みたいな像が目に付いた、近寄ってみると極東国際軍事裁判(東京裁判)に於いてただ一人被告の無罪を主張したインド代表判事ラダ・ビノード・パールの顕彰碑だった、そばには宮司南部利明の顕彰文が添えてあった、戦争を知らない今の日本人はそれをどう受け止めるか私には分からない、そして分かってもし様がない、昭和一桁生まれで当時日本人であった私には複雑な思いがした、人間は皆同じだ日本人も外国人も、何時の時代にも簡単に二分していい人と悪いやつがいる、ただ程度が少しづつ違うだけだ、戦前私はいろんな日本人に出会った、そして戦後日本に旅に来てやはりさまざまな日本人に出会った、十何年前に偶然京都の町かどで道を尋ねて友達になった当時七十歳のお婆さん藤木修さん今でもお付き合いを続けている、去年東京からの帰りに京都の名料亭幾松でご馳走になった、はっきり言えばわざわざご馳走に与かるために京都まで来たのだ、修さんいま九十歳、六、七年前台湾へいらっしゃったこともありました、何人によらず人間はさまざま、運がよければいい人に出会うし、運悪ければ悪いやつに出くわす、いい人とは真摯に交わり、悪いやつとは距離を置けばいいのだ、一昨年だったかタクシーで修さんと約三時間ばかり京都めぐりをした時のことだった、運転手さん観光説明のほかいろいろ人生について高論をはじめた、修さん当時八十九歳、あんた歳いくつと聞いた、曰く六十一と、修さん咄嗟に口から出た、あんたヒヨコだよと、ハハハ、途中で瀬戸内寂聴さんの話も出た、人生てあまり深く考えなければ面白いこともあるものだ、小生八十二歳、修さんの八歳年下。


鮟鱇氏のブログ: http://shiciankou.at.webry.info/201204/article_14.html 
      (呉昭新;オーボー真悟;瞈望)
  京都料亭幾松(2011)

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