<<年をとる>>
年をとるのは拒めない、嫌いではないが、体力と記憶力がおちるのはいやだ。が、拒めない。
二ヶ月前(五月末)台湾南部の義守大学の応用日本語学科が主催した「第二回全国日語俳句大会」の受賞式に特別講演に招かれて「漢語俳句と世界俳句」と言う題でスピーチをしたが、どうも恥ずかしい次第、うまくゆかなかったと自覚している。
最近のスピーチは約五年前、何の誤りも支障もなく気軽にやってのけた、で今回もそのつもりで48枚のスライドを準備して前もって大会に届けておいた。
さて台の上に上がってスクリーンに題目が映った、口をあけてスピーチを始めようとしたが言葉が出てこない、こんな筈じゃなかった、いぜんはスライドの字幕をみれば後から後へと自然と言葉がどんどん続くのだったが、そうじゃない、自分で何をしゃべったか、聴衆観衆が聞いて分かるのか分からないのか、まったく知らずに、次から次へとスライドを進めてスピーチを終えたしまった。
五年前は76歳、今は81歳、体力が日々衰えてゆくのは、身にしみて分かるが、記憶力の方は固有名詞をよく忘れることと何かしようと思って立ち上がったら何をするのかわすれてしまったと言うことはよくあるが、まさかこんなにまでひどいとは夢だにも思わなかった。個人差ではあるが、97歳で亡くなった父は、80歳にして60年間苦労して集めた資料と書き上げた原稿を火事でことごとく焼かれた後、一からやり直して92歳で3000ページ、五百万字の未曾有の華台活用大辞典の編集を成し遂げて、93歳で国の文化勲章を受賞したが、筆者にはそんな体力も記憶力もない。日本の日野原重明博士には足元にも及びつかない、個人差と諦めざるをえない。まあ、達観であるというのがせめてもの慰め。
今年9月、東京で行われる第六回世界俳句大会に呼ばれているが果たして大丈夫なのか少し心配になってきた。先ずは原稿をしっかり作ってそれを見ながら読むことにした。(呉昭新;オーボー真悟)2011-07-27
年をとるのは拒めない、嫌いではないが、体力と記憶力がおちるのはいやだ。が、拒めない。
二ヶ月前(五月末)台湾南部の義守大学の応用日本語学科が主催した「第二回全国日語俳句大会」の受賞式に特別講演に招かれて「漢語俳句と世界俳句」と言う題でスピーチをしたが、どうも恥ずかしい次第、うまくゆかなかったと自覚している。
最近のスピーチは約五年前、何の誤りも支障もなく気軽にやってのけた、で今回もそのつもりで48枚のスライドを準備して前もって大会に届けておいた。
さて台の上に上がってスクリーンに題目が映った、口をあけてスピーチを始めようとしたが言葉が出てこない、こんな筈じゃなかった、いぜんはスライドの字幕をみれば後から後へと自然と言葉がどんどん続くのだったが、そうじゃない、自分で何をしゃべったか、聴衆観衆が聞いて分かるのか分からないのか、まったく知らずに、次から次へとスライドを進めてスピーチを終えたしまった。
五年前は76歳、今は81歳、体力が日々衰えてゆくのは、身にしみて分かるが、記憶力の方は固有名詞をよく忘れることと何かしようと思って立ち上がったら何をするのかわすれてしまったと言うことはよくあるが、まさかこんなにまでひどいとは夢だにも思わなかった。個人差ではあるが、97歳で亡くなった父は、80歳にして60年間苦労して集めた資料と書き上げた原稿を火事でことごとく焼かれた後、一からやり直して92歳で3000ページ、五百万字の未曾有の華台活用大辞典の編集を成し遂げて、93歳で国の文化勲章を受賞したが、筆者にはそんな体力も記憶力もない。日本の日野原重明博士には足元にも及びつかない、個人差と諦めざるをえない。まあ、達観であるというのがせめてもの慰め。
今年9月、東京で行われる第六回世界俳句大会に呼ばれているが果たして大丈夫なのか少し心配になってきた。先ずは原稿をしっかり作ってそれを見ながら読むことにした。(呉昭新;オーボー真悟)2011-07-27
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