虹ノ松原 (唐津)

(2009年十一月唐津鏡山より撮影

遥か下虹ノ松原冬霞 (唐津鏡山)
下界なる虹ノ松原冬霞(唐津鏡山)

唐津湾沿いに、虹の弧のように連なる松原。唐津藩初代藩主、寺沢志摩守広高が、防風・防潮林として植林したのが始まりで、全長5km、幅1kmにわたって続く松は、約100万本と言われています。今では、三保の松原、気比の松原とともに日本三大松原の一つに数えられ、国の特別 名勝に指定されています。NHK「21世紀に残したい日本の風景(BS2)」の投票で、第5位 に選ばれました!(唐津観光協会)

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世界の俳句

有季‧無季 定型.自由律 花鳥諷詠‧人情世故  時事‧社会 客観写生‧主観感動

 みんな みんなの母語でよむ俳句

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齢七十五にてつと去りし日を振り返りみて我自身を知る…
波の間に間に 流されるまま 人を羨むことなく 求めることなく
世間と争わず なれど 荒波に遭うを 免れ能わず
思いもよらない 公務員年金を亨く 多からずとも又 少なからず

命を保つに 憂うこと無し
キーボードを たたいて インターネットに遊ぶ

得るところ有れば 又与える事もあり
名利共に 余生の外にあり
(オーボー真悟)
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e-book (オーボー真悟の短詩集)を刊行しました、ご興味のある方は下記のアドレスhttp://www.olddoc.net/oobooshingo-poem.pdf をプレスして下さい、無料でダウンロード出来ます。                    
 (オーボー真悟)
The Global HAIKU Net: https://olddoc.net/global-haiku/index-H.html

2018年2月27日火曜日

エッセイ-15

<季語>と<キーワード>
一外国人の心からの願い
日本の俳人の方々、日本源流の俳句の世界への発展のために、目を開けてください。
俳句は決して皆様方が一つの信仰の様にお考えなさるように狭いものではありません。俳句は文学です、そして世界の文学です。伝統だけが俳句ではありません、伝統も俳句の一部ですが全部ではありません。惜しむらくは子規が短命だったことです。若し子規がもう少し長生きだったら、子規の知力と迫力を以てして俳句への改革はそこまでで止まったでしょうか、そうではない筈です、その子規の遺志を続けようとしたそしてする方々の努力がなぜこうまでに一般大衆から無視された、またされるのでしょうか、外国人の私は理解に苦しむのです。すべての物事は変遷、改革、進歩するものです、芭蕉の言う<不易流行>、俳句の精神真髄は変わりませんが俳句はまた時の流れに従って変わりゆくものです、それが流行です。伝統を守るとおっしゃいますがご存知の如く、子規は俳句の改革を求め改革をしたのです、そして芭蕉も、蕪村も、一茶も同じように俳句の改革をなしたのです、おなじ575ですが内容が違います、そして改革進歩は永遠に続くのです。
一般大衆の作句をご覧ください、伝統を守ると言いながら、言葉も文言から口語に変わりました、仮名遣いも変わりました、漢字も変わりましたと同時に常用漢字と言う使用制限も出てきました、古い時代に合わない季語は捨てられまた新しい季語もどんどん出て来ています。花鳥諷詠と言いながら春燈では人事も許されています。また客観写生と言うても一般に主観的の作句が主流の様に見えます(強いて言えば詩は皆主観です)、例えばネット上の<俳句のサロン>には多くの結社の俳句集の俳句が季語別に載せてあります、その一つを選び出して見てみましょう、例えば季語<汗>の項を見てみると19962016年間の1143句の内大部分が主観を述べた句で特に伝統俳句結社の名だたるメンバーが主観的俳句を詠んでいます、これが自然また当然で間違ってはいませんが、問題はこの方たちが俳句を説くとき真っ先に出るのが季語、花鳥諷詠、客観写生と言うことだ。日本での場合一般的に知らず知らずのうちに慣れてしまっている故問題にはなりませんが、外国人に説く場合外国人は戸惑ってしまいます。ハッキリ言えば言うことと為す事が違うのです、これでは他人を承服させられません。正直のところ未熟者の小生にとっては季感の無い季語、即ち季語あって季感がない句が多すぎます。また、ただ季感につていう場合日本の北海道から沖縄での同じ季語の季感、日本と外国での季感の違いはもう古臭く、文献も山ほどあり、また河東碧梧桐が明治の昔に言ったように月を見ても日本人とドイツ人では感じるのが違うばかりでなくドイツ人は別に感じません。

周知の如く俳句での詠みと読みは違うとともに自選自解もよくタブーとされているように季語の解釈も人によりけり。XX忌などは季感と言うよりはその俳人に対する感触と言った方がよさそうだ。また<228>と言った場合台湾人にとって連想するのはあのむごたらしい大虐殺の228事件で決して冬の二月の季感ではありません、<226>と言った場合日本人が連想するのはあの226事件の青年将校の決起かそれとも二月の冬場でしょうか、またおなじように<311>は春先よりもあの大震災を連想するはずです、所謂の<歴史文化の記憶>、それゆえ小生は<季語>よりも<キーワード>または<基語>という方が適切じゃないかと思います。一外国人のたわごとのように聞こえますが日本国内でもよく聞かれる話です、ただ多くの一般大衆がとりつきやすい伝統俳句(虚子ら曰く)に押された多数決(ポピュリスム)の果でしょうか、また日本人は伝統に弱いと言われますがそうでしょうか?ああ俳句よHaiku.
でわ伝統俳句の守護者はどうすればよいのでしょうか?いたって簡単です、俳句とはと問われた場合<これ以上縮めることが出来ないまでに縮めた最短の詩で瞬間の感動を詠んだ詩であり、其の中の所謂伝統俳句は日本人の習慣に則て季節を詠み込んだ俳句の一部であると、そして伝統俳句には守らなければならない三縛りがあると>。
(2017-3-16)

         黄金海岸(1990)