“俳句”の二つの顔
日本の俳句は今 “HAIKU” として世界中に広がっている、だがHAIKUとは何だろうか?となると深く考える人たちは迷ってしまいます。と言うのは20世紀の初めにエズラ•パウンドのイマジズムが一時流行ってこの方早100年を超すが、現時ネット上の諸外国の作品に目を通してみると、その内容は様々である。では俳句の源泉である日本ではどうなのか?静謐、清澈のようで騒然、混沌としているのが実情、とくにネットと言う便利なそして誰にも束縛されない媒体が意志、意見、思惟、思想の発表の自由と利便をもたらした今日、源泉の日本での俳句とは?に関する不確実性が外国の人々を混乱させています、とくに日本人の方で外国語に堪能であると同時に俳句も詠めると自負し、その実俳句には生半可な人がしたり顔して俳句を外国人に教えようとしきりに所謂の伝統俳句の三縛りばかりを強調して外国人をして五里霧中に陥らせており、困ったものである。一方日本本国の実情を見てみると、俳句に二つの顔があるのに気づきます。一つは俳句を芸事として生け花を習う様に考えて俳句を詠んで文藝人の箔を付けようとするのか所謂の有閑マダムの芸事の一つとしての顔、もう一つの顔は真に文学、詩として俳句を詠んでいらっしゃる方の詠む俳句という顔である。ところが数にして前者が大多数を占め後者は少数にすぎません、それ故もともとは俳句の一部である前者が俳句でのポピュリズムで本流の様になってしまい俳句の全貌を意味する後者がたじたじと押される結果になってしまいました。主客転倒です。無季、非定型、三縛りに沿わない句、社会一般を詠んだ句、難解な句、生活に関する句、政治思想の句、等々は皆俳句と見なされません。俳句界でのポピュリズムは俳句の本質を変えようとしています、で1000以上もあると言われている俳句結社の主宰も大部分が三縛りを取り扱わないとお弟子さんが集まらないのか、俳句の本質真髄をよく理解しておられる方も三縛りに縛られているようで、軽々しく三縛りに触れるのを避けているようです。人が生きていく以上生活費が必要です、だからとやかく何とも言えません。
しかし10数年前ネット上に中川広と言う方が伝統俳句の三縛りや俳句結社のあり方に触れた評論を載せましたがほとんど賛否に触れた評論を見ていません、これは戦後間もない頃の桑原武夫仏文学教授の<俳句第二芸術論>発表当時の俳句界の反応よりひどいものです。中川氏の評論は今でもなおネット上に載っており日本語を解する外国人は読むことが出きます、けっして下らない評論ではありません、一応道理も通っており結社の描写も実情そのものです、ただある個人に対する攻撃が明さまに過ぎると言うだけです、でも同じような攻撃は彼に始まったことではありません、以前以後にも見受けられます。小生は一外国人として日本の俳人、俳学者、評論家人の客観的で学術性で公平な評論を読みたいものです。でないと日本の俳句界はこれ程までに俳句界のポピュリズムに弱いのかと思われざるを得ません。すでに世界中に愛されている日本源泉の俳句のために、日本文化の広報のためにぜひ読みたいものです。
<中川広の俳句のページ:> http://www1.odn.ne.jp/~cas67510/haiku/index.html