<呉昭新俳句短歌短詩集第一集>序文(日本語)
吳昭新 (おーぼー真悟;Chiau-Shin NGO) 俳句集がダウンロード (download)
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1) http://olddoc.tmu.edu.tw/download/oobooshingo-poem.pdf (おーぼーしんごの俳句集)
2) http://olddoc.tmu.edu.tw/download/吳昭新漢語俳句短歌自由詩(第一集).pdf
--- 無料免費 ---
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小生俳句を習い始めたのが2008年、78歳の時である、ただ少し日本語が分かると言うだけで、友達に誘われて台湾唯一の日本語俳句結社に入会したのだ。正直のところ俳句は小学校時代すでに何句か習っていた、短歌も何首か覚えていたのだが、ただ78歳になって習い始めて初めて思い出したのだ。過去九年をふり返り見て、詠み始めて間もなく<俳句とは?>に迷い、今日まで至りました。そして九年の間本業も雑事も打ち捨てて全ての時間を俳句の資料の収集精読にあて、その昔他の領域で博士号を取得した方法で分析研究し、二つの博士号をもとり得る時間を費やして、ついに所謂の伝統俳句が俳句界の<ポピュリズム>であるのにたどり着きました、これも小生が外国人であるというメリットがあるお陰によるものであるのには感謝せざるを得ません。俳句は一般に知られているよりももっと広いものであり、日本人ばかりでなく世界中の俳人たちが自分それぞれの母語で熱心に俳句を詠んでいます。
日本でも多くの方々がポピュリズムに押されながらもびくともせず、自分なりの俳句を詠んでいます、一方まだ多くのかたがたが言葉遊びで生け花や舞踊を習う様に俳句を伝統俳句の三縛りの下で、知らぬが仏で毎日を楽しんでいます。年配の方が多いようだが?若い方もいらっしゃる、まさに十何年か前に中川広さんが既に指摘しているように、また俳聖子規が言った<箱庭俳句>で各結社の主宰や先輩の意のままにされています、だがそれでよいのだ、ゲームや博打やパチンコに耽るよりは、より美しい日本語の洗練になるから。ただそれだけが俳句だと思い込んで、もっと広い深いところに俳句の真髄本質を探るのを排斥し世界の人々がその俳句の真髄を探るのをも貶さなければよいのです。
また一方、台湾や中国などの漢語文化圏の方々が、ただ一字の<俳>があるだけで近来流行っている新興新型漢詩の<漢俳>を俳句と間違えていることである。すでに漢詩及び俳句をよくする詩人が両者は全く同じくない詩型と確認しているにも拘らず、まだ生半可な日本語しか知らない詩人や、俳句の詠みと読みが必ずしも同じでないことを知らない者が個人の感触鑑賞を表現した錦上添花や画蛇添足の翻訳を頼りに間違いを直そうとはしない人たちがいるのは嘆かわしい事である。詩人とて全ての詩情、詩境、詩型を知る由もないことを知るべきである。
漢詩の大家そして俳人でもある石倉秀樹氏が小生に教えてくれた、<俳句が何であるかよりも、俳句で何ができるか?>の道を進むことだという一言を厳守して、小生はこの箴言を外国語で試しています、そしてその素晴らしさを見つけました、また英語(小生は外国語として日本語と英語しか分からない)を使っても多くの方々が俳句の本質真髄をつかんで楽しんでいるのを知り得ました。日本の方々はこの現状を喜ぶべきです、また誇りとすべきです、俳句の源流は日本にあるのですから、また19世紀の初期に世界で流行ったイマジズム短詩も日本の俳句に源を発しているのです。俳句に関する更なる小生の思惟は本書のエッセイ欄の各所に述べられております、どうかご叱正をお願い申し上げます。最後に日本に起源を発した俳句の将来を祝して序を閉じます。
(2017‐9‐30:呉昭新-おーぼー真悟)